【渋谷区】鍋島松濤公園 松濤はすなわち鍋島
今日は渋谷区にある鍋島松濤公園にいってまいりました。
地図でみるとほとんど池ですね。
写真の右側の木があるようなところがトイレです。渋谷区は公共トイレが売りで有名デザイナーに依頼した個性的なトイレが多数あります。
江戸時代1860年頃の地図
寄合肝煎 長谷川久三郎
北側には紀伊徳川慶福
長谷川久三郎は幕府の長州征伐時に長州藩の捕虜になったという逸話がありました。
https://www.city.yamaguchi.lg.jp/rekibunshigen/rekibunshigen/r368.html
明治9~19年
明治維新後、徳川は追われ、新政府側の勝ち組大名が幅をきかせます。
薩長土肥の肥にあたる、佐賀鍋島家。
鍋島家はこの土地を払下げて茶畑を作ります。茶畑が広がる場所で水車のマークがありますね。いや・・・工場なのかな。
水車ということにしてください・・・水車でなくては都合が悪いんです(笑)今ある水車が突拍子もない思いつきでないことを示すためには水車でなくてはならない。
このあたりは渋谷台地のヘリにあたり水が湧いている場所なので、昔の人は好んで住んでいたそうです。
そういえば、紀伊徳川の赤坂御所も池があるし、尾張徳川の戸山公園も池があった・・・あ、ここも紀伊徳川屋敷か。
有力大名屋敷のあるところに水源ありということが言えるかもしれません。
明治後期
鍋島農場の種蓄牧場となっています。
当時の鍋島家当主、鍋島直大
直大は10代半ばで佐賀藩藩主となり、戊辰戦争で活躍。
明治になると薩長土肥の一藩として連署、明治4年から藩知事を辞してアメリカ・イギリスに留学、江藤新平の起こした佐賀の乱 明治7年(1874年)のときは留学時だったために不在。
明治9年からこの土地を払下げ失職した武士を集めて茶園「松濤園」を作る。
明治11年帰国
明治13年イタリア駐在大使
明治15年帰国 洋行の知識を生かして日本の近代化政策を牽引
明治23年貴族院議員
かなりエネルギッシュな人物ですね。なるほど不平士族がおこした佐賀の乱、失業武士対策の事業の一つがこの松濤という茶園なのでしょう。松濤というのは鍋島由来なんですね。
明治維新後、不平士族の乱が頻発しますが、新政府側でおいしい思いをできると思っていたけれど、そうじゃなかったということでの反乱なんだなと今更ながら。まあ当たらずとも遠からずですよね。佐賀の乱、萩の乱、西南戦争等、士族の反乱は薩長土肥側。
鍋島直大のお墓は青山霊園にありましたが墓じまいで佐賀へお帰り。
大正時代
大正13年に児童公園として開園。
大正時代後期からは、鍋島農園の宅地化がはじまります。おそらくは大正12年の関東大震災で郊外の住宅事情が高まったのだと思います。
鍋島家は今もこの辺りの大地主なんでしょうか。
昭和戦前期
ここで鍋島邸が現れます。
以前は鍋島邸は都心に見ることができたのですが(たとえば今の首相官邸やロシア大使館あたり)徐々に移動していったのかもしれません。
昭和期の鍋島邸は現在の松濤中学校の北側です。
現在、松濤中の北には「鍋島松濤ハウス」なるマンションがあるのでおそらくそこの地主さんをやっているのでしょう。
1950年代 高度成長期前夜
鍋島邸は松濤ホテルとなりました。一般市民が泊まれるホテルというのではくて、戦後占領軍に接収され米軍の関連施設として存在していたようです。
代々木公園のワシントンハイツや六本木のハーディバラックスみたいなかんじでしょうか。
ここから北にある渋谷区大山町、現在のユニクロ宅近辺にあるお屋敷の数々も空襲を免れましたが、占領後に米軍将校が使うために空襲せずに残していたということも有名な話です。またほど近い前田侯爵邸にはマッカーサーの後任の米軍大将が住んでいます。
松濤はすなわち鍋島である これが今回最大の学びとなりました。
バブル期の地図
松濤美術館というのがあります。
この一連の流れだと松濤=鍋島 ですから鍋島美術館なんでしょ。鍋島関連の美術品があるんでしょ。と思いきや渋谷区立の美術館でした。
1981年にこの美術館で鍋島焼が展示されたときに「松濤の地名は鍋島の茶園から由来している、当館で鍋島焼を展示するのも一つの因縁か」とされていたので、もう全然関係なさそうです。
あらためて地図みると、松濤美術館と鍋島の土地は関係ありませんでした。
訪問時は暑くてしょうがなかったですが、気候の良い時は良いと思います。