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【品川区】天王洲アイル周辺

前回の続きで高浜運河を南下したところに天王洲アイルといわれる場所がありましたので、そこで東京時層地図を開いてみました。

天王洲アイルについては以前にやっていましたが、今回は場所と角度を変えて改めて調べなおし。2年前の記憶もそんなに残っていません。

ペリー来航後に急ごしらえで砲台を作ったうちの第四砲台が、今では、天王洲のビルあたりに砲台があったんだなぁと妄想するばかりです。

天王洲運河と高浜運河の合流地点 対岸の天王洲アイルビルのあたりに砲台があったと無理やり妄想すれば、水辺だからギリギリいけるかなという感じ。

現在の地図

このあたりって近所で働いているか、なにか用がない人以外はなかなか人はこないんじゃないかなと思うんですよね。とおもったら天王洲は再開発地区で人口が増えているらしいです。こんな水辺の危険そうな土地に住むなんて、と昔は思っていましたが、昨今の異様な夏の暑さを考えると、水辺いいなぁと思っています。ハザードマップによるとこのあたりは5mくらいの高潮が来る可能性があるからそれへの備えは必要ですが。

明治9~19年 1876~1886年

東側に第四砲台がみえます。南西は利田新地

○ 利田新地(かがたしんち)1834年に漁師町の一部を埋め立て開墾に着手した利田吉左衛門の名前を冠したようです。

で、なにか変な形をしている。最初は新地っていう名前だし遊郭かなとおもったのですが、江戸時代末期の地図をみると

御殿山下御砲台場 安政一年着工、十一月完工(1855年)

なんと、ここにもお台場が!影のお台場。

そして現在この地にあるのが品川区立台場小学校 なるほどその通りです。

○ 室町時代にこのあたりの天王洲で牛頭天王の面が浮かびあがって、京都の祇園祭にならって神輿洗いの神事がおこなわれるようになったと。
1247年に在原神社に京都の八坂神社より牛頭天王が勧請され、江戸時代には江戸夏祭りの花形として隆盛を極めたとのことでした。お神輿を水につけるのって珍しいですね。

品川近辺の神社は品川神社と在原神社があるのですが、在原神社のホームページをみるとどうやら仲が良くなさそうなんですよね。以下の記載がありました。

「凡そ二十五年前までは、 品川神社の神職が当社の神輿に付ける稲穂を取りにきて当社に倣った祭りをしていましたが、今ではお断りしています。」

昔は協力関係にあったけれど、今はやめたということのようです。



明治39~42年 1906年~1909年

利田新地も一気に埋め立てが進んだ様子。


関東大震災直前 大正5~10年 1916年~1921年

大正期もあまり変わっていません。今後の地図ネタとして漁師町あたりがおもしろいかもしれません。


昭和初期戦前 昭和3~10年 1928年~1935年

あっというまに埋め立て。品川区の市街地形成のあゆみによると

昭和 10 年代に入り、東品川 2 丁目から東大井 1 丁目にかけて 埋め立て整備が開始(芝浦運河が形成)

ということなので、このあたりの時期から天王洲アイルの埋め立てがはじまったようです。

国が全方向で戦争に向かっているかとおもいきや、この時代は戦前なので公共工事もやっているんですよね。

築地市場が開場し、美輪明宏さんが産まれたのも昭和10年です。

高度成長前夜 昭和30~35年 1950~1955年

○ 東京水産大学は越中島→横須賀市久里浜→品川と移転していたようです。

○ 天王洲では自動車練習場があります。

○ 周辺の工場が多いですね。ここから工場はもっと増えて昭和41年には

昭和 41 年の品川区の工業 ・工場数 5,284 件 
従業員 30 人未満の工場数 4,753 件 
従業員 100 人以上の工場数 123 件

https://www.city.shinagawa.tokyo.jp/ct/other000027500/01shiryou1.pdf


戦後の埋め立て地は工業専用地となったとのことでしたが、まさにその通りの地図となっています。

西側にある今はなき運河にかかっていた八ツ山橋も写真を撮りに行きたいところです。 

バブル期 昭和59年~平成2年 1984年~1990年

○天王洲水門は 昭和47年 1972年 完成
○目黒川水門は 昭和47年 1972年 完成
○新東海橋は 昭和35年 1955年 完成

今後の計画として、8月あたりに周辺の橋の写真をとって再掲載しようとおもいます。楽しみです。

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