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【港区】電通本社ビル近辺

ある日ある時、電通本社ビルの前を歩いたのでそこで東京時層地図を開いてみました。今回はその周辺を見ていこうと思います。

電通といえば日本を牛耳る広告代理店であり、世に出るものはなんでもかんでも電通様の思い通りというイメージがあります。
他の広告代理店会社に最も恐れられ、民衆を意のままに操る電通。

また電通鬼十則が有名です。

1. 仕事は自ら創るべきで、与えられるべきではない。
2. 仕事とは、先手先手と働き掛けて行くことで、受け身でやるものでない。
3. 大きな仕事と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする。
4. 難しい仕事を狙え、そしてこれを成し遂げるところに進歩がある。 5. 取り組んだら放すな、殺されても放すな、目的完遂までは・・・
6. 周囲を引きずり回せ、引きずると引きずられるのとでは、永い間に天地 のひらきができる。
7. 計画を持て、長期の計画を持っていれば、忍耐と工夫と、そして正しい 努力と希望が生まれる。
8. 自信を持て、自信がないから君の仕事には、迫力も粘りも、そして厚み すらない。
9. 頭は常に全回転、八方に気を配って、一分の隙もあってはならぬ、サー ビスとはそのようなものだ。
10. 摩擦を怖れるな、摩擦は進歩の母、積極の肥料だ、でないと君は卑屈 未練になる。

電通鬼十則

賛否がありますが、この逆を行くとなると

「仕事は受け身で、簡単で小さな仕事をして、早々にあきらめて、周囲に引きずり回されて、短期的計画で、自信がなく、頭を使わず、摩擦が怖いからなにもいわない。」

思えば私はこんな感じで20年以上過ぎてしまった気がする・・・。

電通鬼十則の重要性は過ぎてしまってからわかるんですよね。

誰かに言われても「はぁ?なにいってんの?だまらっしゃい、さてゲームやろぅ」で終わり。いつから聞く耳を持たなくなってしまったのか・・・中学生くらいか(笑)老い易く学成り難し

2002年竣工 現在は電通は本社ビルは売却し、テナントとして入っているようです。

電通の創業は

1901年(明治34年)

光永星郎(1866年~1945年)熊本県生まれ、1901年(明治34年)日本広告株式会社を設立。4ヵ月後、電報通信社を併設。
第一次世界大戦までは景気が良かったですが、満州事変以降、国によって広告が一元化されて、戦時下では大変だったようです。

隆盛を極めるのは戦後の事、イメージ的に戦後だとおもっていましたが、明治の頃にはすでにあったとは驚き。
広告って昨日今日の話じゃないんですね。




現在の地図

電通本社ビルは現在地(青印)の北側。
南側は浜離宮、西に新橋。さらに北は銀座。現地は車通りが多い場所ですが、浜離宮もあり歩いている人も結構います。

アプリ大江戸今昔巡り 1855年頃

江戸時代、周辺は大名の敷地です。

東から

〇豊前中津藩 奥平大善太夫昌服
奥平家は譜代の10万石大名。鳥羽伏見の戦い以降は新政府側に味方。

〇京都所司代 播磨竜野藩 脇坂淡路守安宅(わきさか やすおり)
脇坂家は譜代の5万石大名 脇坂安宅は1857年に老中、1860年桜田門外の変で大老井伊直弼が暗殺されたことにより、老中をやめるが後に復帰。


〇陸奥仙台藩 松平陸奥守慶邦(伊達
伊達家は62万石の大大名 戊辰戦争で新政府軍と戦い負けたことにより領地は全没収。


明治9~19年頃 1876~1886年

〇 脇坂屋敷と伊達屋敷は新橋発車場へ。
初代・新橋駅(後の汐留駅)が1872年明治5年に開業 このころは新橋という駅名はなくただ発車場と書かれています。

1899年頃

うん、地図とぴったり符合。北から南をみた図ですね。どうでしょうか。

〇 奥平屋敷は電信局、電信局修技校、第十五国立銀行

第十五国立銀行

うーむ。地図と写真で位置関係もバッチリわかる。
蓬莱橋越しに撮られた写真。今は蓬莱橋と名前を残すのみです。蓬莱橋は江戸時代は汐留橋とよばれていたようです。

〇 浜離宮については以前取り上げたことがあります。
また行きたいです。


明治末期 明治39~42年 1906~1909年

〇 1909年に烏森駅が開業して、1914年に烏森駅が新橋駅に改称、初代の新橋駅は汐留駅になり、貨物列車の専用駅になりました。地図の西側ですが見切れています。

〇 電信局は逓信省へ。逓信省は戦後まで交通、通信、電気を管轄していた省庁。
歴代大臣は、榎本武揚、後藤象二郎、黒田清隆、原敬、犬養毅といった有名どころから、変わったところでは小泉又二郎という小泉純一郎の祖父。
港湾労働者のまとめ役で入れ墨も入っていたらしいです。

〇 このころの駅の写真。旅客駅として機能している様子。

1912年頃(明治末期)

大正時代 関東大震災前 1920年頃

〇 浜離宮は白抜き

〇 1914年に旅客駅としての役割は廃止。汐留貨物停車場として運行。

〇 現在の「旧新橋停車場 鉄道歴史展示室」は元あった場所に復元されているというわけではなさそうですがどうでしょうか。
一度行ったことがあるのですがその時は位置関係をしらべていなかったのでまた行ってみたいです。

〇 この時代、道路よりも物流の運搬は水路と鉄道だったことが地図からわかります。


昭和初期 戦前 昭和10年頃 1935年頃

〇 鉄道も重要な場所なので、貨物駅である汐留停車場も改描されているのだとおもわれます。もしくは関東大震災後、鉄道は壊滅的な打撃をうけ自動車が台頭してきたようなのでこの地図の通りかもしれませんが・・・

〇 逓信省は関東大震災で被災。

〇 関東大震災後の都市計画で昭和通りが通りました。
関東大震災後の都市計画は広範囲にわたっていて現在の私たちの生活にも影響を及ぼしています。

高度成長前夜 1955年頃

〇 1955年頃は汐留貨物駅として稼働していたようです。

バブル期 1990年頃

汐留貨物駅は1986年に廃止。

跡地の再開発について笹川良一が中曽根康弘をつついたという話を、笹川良一関連の本で読んだことがあります。5年越しで繋がった(笑)(あの頃は記事を書くにも図書館で関連書籍を読んで書いていました・・・)

笹川記念館の8階には会長室があり、笹川良一は総理大臣になる前の中曽根康弘を呼び、新橋の汐留操車場を指差して
「君、あれを今すぐに開発しろ、グズグズするなよ」
と言ったとか。ちょうど80年代前半の事だ。

https://note.com/aratanamai/n/n15e53d2f60b6

もうそろそろこのノートも200回目だから、原点に戻って関連書籍を借りて引用する形にしようかな・・・
noteの毎週投稿しなきゃいけないようなプレッシャーもあるんですよね。連続投稿を続けたい!みたいな感じになっちゃう。

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