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【大田区】天空橋駅

現代の地図

スタンプラリーの降車駅で東京モノレールの天空橋駅(てんくうばしえき)にいってまいりました。

改札の横にガチャガチャ(ガチャポン)があってそこにいた親子連れが

「とんかつ食おうぜ」

と言っていたのを耳にして、行ってみようということになりました。

ここ一体は HANEDA INNOVATION CITY として2023年にグランドオープンするようです。

近くに海老取川が流れていて釣りポイントともなっているので、釣りの休憩の人もいました。釣りも良いですね。釣りと東京時層地図っていうのも相性が良さそうです。

釣りなら普段は行かない川べりにも行くことになりますし。ただ、娘は釣りに興味がないので手が離れてからかな。

向かいに大きなビルを建設中です
天空橋駅の北側も広場になっているようです。
こちらがHANEDA INNOVATION CITY ゲームのマインクラフト感が半端ない。現代建築はゲームの世界に近づいていくのでしょうか。
記念撮影
こちらのとんかつ檍(あおき)さんで昼食 読めなくて調べるまでオクだとおもっていました。席数が限られているために待ち時間は結構あります。とんかつは分厚くてやわらかく本当においしかったです。ありがとうございます。
なんだか空が近い気がしますね。まさに天空橋駅。
建築中
このビルも大きそうですね。
現代の地図
明治初期

この時代は海の中なんでしょと思いながらも、しっかり陸地がありますね。畑、水田、海老取川、鰕取川(エビトリガワ)と書かれています。

埋め立て地ではなく多摩川の干潟の一つだったようです。海沿いだけれど畑も水田もある感じ。

明治後期

北側にはカモの猟場があります。この一帯は鈴木新田。

明治30年の田口卯吉(官僚、実業家、ジャーナリスト、衆院議員)による楽天録には
「羽田捕鴨場に遊ぶの記」
というものがありました。

田口卯吉(1855~1905)

池にはカモが数千羽が集まっており、家鴨(アヒル)を放って仲間と思わせ、エサで引堀に集めて捕まえるんだとか。

飛んできたなにもしらない鴨は仲間だと思った家鴨に誘われて捕まり食べられ、その囮役の家鴨も最終的には食べられる運命にあり、この様子を自身が所属する帝国議会の近況にもなぞらえています。

田口卯吉はここでの帰りに鴨を買って食べるも、鴨はおいしかったけれど、ふと捕まった鴨に同情し歌をつくりました。

家鴨や鴨の羽田の池の上に 国の襟をも吾みつる鴨

これ実は家鴨(アヒル)と書かれていて実はアイガモがもしれないんですよね。アヒルだとゴロが悪い気がする。個人的には鉄砲で撃っているのかとおもいきや、アヒルを放って誘導して捕まえるというのですから牧歌的故に身につまされるということでしょうか。


大正時代

大正時代

飛行場ができていますね 羽田飛行場

Wikipediaによると昭和6年 1931年に羽田飛行場が開港したとのことですがこの時代もあるようにもみえますね。穴森線という鉄道も通っています。

羽田鈴木町というのが町名となっているようです。


昭和戦前期

東には穴森稲荷神社、海水浴場、競馬場もあり観光地として多いに盛り上がり、東京一の観光地と言われていたようです。海水浴ができるのはいいですね。

以前、羽田空港第二旅客ターミナルで東京時層地図をみたときにわかったのですが、昔の穴守稲荷神社も、海水浴場も、競馬場も現在では一般人が立ち入れる場所ではなくなっているので(空港内です)、調べにくく・・・云々(言い訳)

一大観光地の羽田鈴木町ですが戦後大きな変革がおこります。

高度経済成長以前1950年頃

戦後、GHQによって羽田空港近辺の住民は強制立ち退きとなります。

これはキツイ。

干潟を開拓して鈴木新田として住んでいた人たちが追いやられるとは。

連合国軍は蒲田区長との連名で日本の警察を通じて、羽田穴守町・羽田鈴木町・羽田江戸見町の三か町内約1200世帯、約3000名の全住民に12時間以内の強制退去命令を下した。
敗戦後、まだ1か月も経たない中では、新聞記事を読んでいた住民は極僅かであり、読んでいたとしても、具体的な範囲が挙げられていなかった為、自分達が当事者であると考えた人は殆どいなかった。「飛行場付近の一部住民」に説明があったのは前日のことであり、警察から口頭で知らされた。そこで住民代表が、12時間とはあまりにも理不尽で到底全住民に周知出来ない事や、立ち退き先も決められないまま路頭に迷う人が出て来る事等を挙げ、蒲田区役所や警察を仲介して交渉が行われた。そうした決死の訴えにより、立ち退き後に立ち入った者の生命の保障はないという厳しい条件付であるものの何とか2日間となったのだが、人手も機材も時間もすべてが不足している、まさに身一つでの立ち退きであった。
突如として町を追われることになった人々は、行く当てもないまま荷車に家財道具を括り付けて、稲荷橋・弁天橋を渡った。48時間後、橋のたもとには連合国軍の兵隊が立ち、街へ戻ろうとする住民に対し、威嚇射撃まで行う横暴ぶりであった。見た事の無い程の大きなブルドーザーやパワーシャベルが瞬く間に家や店を押しつぶし、町は徹底的に破壊され、戦闘機が幾機も走る滑走路となった。こうして、東京を代表する観光地として、多くの人々が訪れ、また生活を営んだ三つの町は、終戦から僅か1か月で跡形も無くなり、地図上から抹消されたのである。そして悲劇に見舞われたのは、穴守稲荷神社もまた同様であった。

Wikipedia 穴守稲荷

明治維新の江戸大名旗本屋敷立ち退きくらいのインパクトがありますね。

こういった事例を目にすると当事者だったらどうするのかなどうしたらいいのかなと考えることがあります。

余計な執着持たないほうがいいのだけど、それが先祖代々の土地だったりするとどうかな。そう簡単にハイそうですか時代の流れですよねとは行かないですよねどうしても。

バブル期

バブル期1990頃

滑走路があります。これは羽田空港のB滑走路。

東に羽田駅がありますが、これを廃して現在地が羽田空港駅となりさらに天空橋駅ができたのは平成10年 1998年のこと。

この天空橋駅に次に来ることがあるかどうか。
釣りに手を出すとそれは可能性アリですね。


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