7,【渋谷区】東京時層地図・明治神宮西参道編
明治神宮の参道といえば表参道が有名。
鬼門に位置する北参道も最近ではお洒落スポット。
今回の西参道は正直言って参道であるということすら意識してみないとわからない。
石灯籠があるのでそれでかろうじてわかる程度。
ただ明治神宮への参拝はこの西参道から(参宮橋駅から)の参拝が空いていてオススメ。
西参道口から明治神宮に入り本殿に至るまでの道のりは都心の喧騒を忘れさせてくれる。
100年前からの「森を管理しない管理」という方式で育てられた人工的な原始林なのだ。
拝観は無料。
宝仏殿前の庭園は綺麗に整備されて、西参道側からの人は少ないので広々と深々と森林浴できる都内でも随一の素晴らしい場所だと思う。
バブル期 1984-1990(昭和59年~平成2年)
まずはバブル期。駅で言うと小田急線の参宮橋駅から甲州街道に向かって西参道を北上した場所にいる。
この辺りは大まかなところは現在とそれほど変わっていないのではないかと思う。(現在の地図をその場でスクショするのを忘れてしまった)
文明開化時 1876-84(明治9~17年)
文明開化時にはまだ明治神宮は造られていない。悠久の歴史を思わせる明治神宮だが鎮座して100年余りと神社としては歴史は浅い。
ここで注目していただきたいのは等高線。
100mあまりの距離のなかに35mから25mの表記があり高低差10m。
これは10%勾配の急勾配だ。
さらに川があり橋もかかる。
この川は下っていくと代々木八幡駅近くに春の小川記念碑が建てられており、この川をもとに有名な歌、春の小川が作られた。河骨川というようだ。最終的には渋谷川に合流する。
縄文時代はこういった谷は海の底だった。
中沢新一著のアースダイバーによると、海に面している岬のようなところには、縄文人の貝塚、埋葬地があり、それが神聖な場所として後の世に社寺仏閣とされているのだとか。
わざわざリアス式海岸みたいなところに住んだり、そんなに沢山貝塚を作ったりするのかな?と最初思ったけれど、なにせ縄文時代は1万年近く続いた時代、住んでいる人は少なくても年月の積み重ねによる蓄積がすごいはずだ。いま私が見ているのは140年の歴史の積み重ねに過ぎない。
画面真ん中やや下の橋の部分が気になるので行ってみた。
移動しました。ちょうど川の橋の上。
北向きで撮影。向こうから人が歩いてくる場所も川の部分。
明治期に川だった部分は今は道路となり、橋が架かっていたと思われる部分と交差して十字路になっている。
代々木渓谷と言えるのではないだろうか。
実際にこの辺りの起伏は強烈で、自転車で行動する人にとっては避けたい場所。
このなんの変哲もない左右に通る道の歴史は古いんだと不思議な気分に。
道の突き当たりは河骨川上流の地図で二股にわかれているところ。いかにも川の跡といった感じ。
また元の位置に戻り、地形図をみる。色が濃い部分が谷の部分。
昔はもっと谷になっていたと考えられる。渋谷区はこのようにして鹿のツノのように低地が入り組んでいるのが特徴。
東京=自転車でも楽なんて考えていると苦労する。自転車が楽なのは皇居から東側。
そして発見!!
上の地図で正春寺(正春寺は現在は移動しています。)と書かれてるところ、ちょうど縄文時代の海岸線。
中沢新一=アースダイバーの主張である、縄文人は海岸線に貝塚や埋葬地をおき、のちにその場所は神聖な場所として人々に伝わり、社寺仏閣となったという説と一致している。
。
あっ!長楽寺(現在の新宿オペラシティー)も海岸線じゃないか!アツいですね。
明治末期 1906-09(明治39~42年)
明治末期になり、突如として西参道が出来上がり。どうやら参道を作ってから本殿を作った様子がある。
この時代は甲州街道より道幅が広かった。
山内、壬生、秋田、福羽邸があらわれる。
標高の表示も低いところは27メートル、高いところは38.6メートルと10m以上の高低差。
山内邸は土佐藩主の直系である山内豊景邸。土佐藩主の山内容堂の孫。
壬生邸は元公家で東京府知事の壬生基修邸と思われる。
秋田邸は陸奥三春藩藩主の秋田映季、もしくは重季邸。
明治末期にこの辺りにはお屋敷が多数作られる。
いずれも明治維新では官軍側だ。
勝てば官軍ということが現実的な時代だ。
関東大震災前 1917-28(大正6~昭和3年)
大正時代にはいり、梅林で有名だった銀世界は東京ガスのガスタンクへ。(芝公園に移動)右上の赤いところは電線会社とある。
山内邸は拡張し、家の裏には玉川上水が流れている。神宮裏と書かれている。駅があったのだ。
ウィキペデアによると
1914年(大正3年)代々木駅として開業。
1919年(大正8年)神宮裏駅に改称。
1939年(昭和14年)西参道駅に改称。
1945年(昭和20年)廃止。
すでに明治末期に今のJRの代々木駅はあるので、紛らわしかったのかすぐに駅名が変わる。
昭和戦前期 1928-1936(昭和3~11年)
この時期は重要施設は白ヌキが基本。
ガスタンクのあった場所は白ヌキ、右上の白ヌキは以前は電線会社と記載されていた。ここも重要施設。
秋田邸が姿を消した。栄枯衰勢。
土耳其大使館はトルコ大使館。
高度成長期前夜 1955-1960(昭和30~35年)
戦後の秋田邸跡には文化服装学院となる。
このあたりってクネクネした感じの作りだなと感じていたら、玉川上水が暗渠になっているからだった。
山内邸も無くなった。山内邸の池が気にはなるけれど、今はこの辺りは高級マンションが立ち並んでいるので、当時をしのべるものは何もない。
参宮橋近辺の馬場というのは今の東京乗馬倶楽部。昭和15年に牛込若松から移転したとのこと。
西参道近辺にあった山内邸や春の小川のモデルとなった河骨川、その近辺の地面の起伏等々、今回も勉強になりました。