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【世田谷区】世田谷駅 世田谷代官


所用があって世田谷線の世田谷駅にいってまいりました。

ちょっと歩いたところ 世田谷代官お膝元 という看板がちらほらと。

ここは代官を町おこしにしている場所のようでした。

なにも知らないものですから、代官で町おこしにしているなんて必死なんだなと思っていましたが、それは無知ゆえの思い違い。

場所が地図には表記されていないですが、都内唯一の代官屋敷があり、国の重要文化財に指定されているようです。恐れ入りました。ははーっ。

世田谷代官お膝元

用事ついでの東京時層地図ですので、代官屋敷には訪れておりません。

この辺りは彦根藩井伊家の世田谷領で、現存する代官屋敷は代官だった大場家のお宅だそうです。


現代の地図。

現在の地図

地図の世田谷区上町まちづくりセンターの南側が世田谷代官屋敷および世田谷区立郷土資料館があります。

江戸時代は世田谷代官となっていた大場家ですが、室町時代には世田谷城を治めていた吉良家の家臣です。

吉良家は北条氏に従っており、北条氏は宿場をつくり楽市をつくり町を発展。楽市は現在もボロ市として伝わっています。これスゴイですね。

その後、北条氏が豊臣秀吉に滅ぼされると、吉良家は城を離れ、大場家は農民に。(1590年)

その後、徳川家康が江戸幕府を開く(1603年)と、世田谷の半分を井伊家に与え、井伊家は大場氏を代官に任命。

以後代々伝わり、大場弥十郎(1760-1836)が今に伝わる数々の記録、書物を残した。

ということのようです。13年あまりで武士から農民、農民から武士という変遷。

ちなみに大場弥十郎は養子 この時代の血のつながりより家の存続が大事ということが良く表れていると思います。家というのは今の時代の会社に近いのかもしれません。

明治初期

北側に豪徳寺があります。豪徳寺は周辺を治めていた彦根藩井伊家の菩提寺です。その他は典型的な郊外と言った感じです。世田谷代官屋敷らしきものもあります。


明治後期

代官屋敷前の通り、通称ボロ市通りですが、すでに発展している様子。

うーん、今回を記事にするなら、代官屋敷とボロ市には行ってみないとダメだなぁ・・・また次の宿題に。

西には豪徳寺、東には勝国寺

勝国寺は豪徳寺の南にあった世田谷城の北東にあって、北と西が崖になっているので、吉良家が世田谷城の防衛ラインとしても想定されていたようです。

この吉良家は赤穂浪士討ち入りで取り潰しとなった三河吉良本家とはちがって、武蔵吉良家と呼ばれていたようです。
吉良成高が世田谷を城としたのは1470年あたりとして、最初に江戸城を築城した太田道灌の没年が1486年っていうことで同時代の人だったということがわかりました。

そもそも太田道灌→徳川家康って120年以上の開きがあるということを知って驚愕。


大正時代 関東大震災前

大正時代の精巧な地図とそうでない地図の真っ二つ

北側に国士館ができました。
大正6年 柴田徳次郎によって設立され、大正8年にこの地に移転。

国士館についてはまたの機会に詳しく取り上げたいと思います。

昭和初期戦前

昭和初期戦前

世田谷線が開通。道路も整備されたようにおもえます。いわゆる世田谷通り関東大震災後の都市計画だとおもいます。

駅前よりもボロ市通り近辺がさかえています。

戦後高度成長期前夜1955年あたり

東京オリンピック前の地図。
世田谷区役所も見えます。今世田谷区役所は新しく庁舎がたちつつありますが、古い庁舎は本当に古くてびっくりします。このころに建てられたものなんだなぁ・・・欧米なら残して使うという方法なのですが、日本の場合は全部壊して新しいものを作る。スクラップアンドビルド方式です。

世田谷区庁舎


青葉学園というのは青葉学園短期大学で2007年に廃止となりました。

バブル期

高度成長期からバブル期にかけて一気に宅地化が進んだ様子がみてとれます。

駅の南には 円光寺というお寺があります。このお寺を利用して櫻小学校を運営していたという碑もありました。140年を越える歴史があるということです。

真言宗豊山派の総本山は護国寺

今回は用事があった先での東京時層地図で、それらしいものはまわっていないですが、あとから調べると興味深いものがでてきますね。

代官屋敷やボロ市は今後ぜひとも行って、加筆修正したいとおもいます。

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