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11,【墨田区】まさか錦糸公園にこんな逸話があったなんて想像もできなかった。

東京時層地図・錦糸公園編

今回は錦糸町にある錦糸公園近辺を散策。(2019年5月訪問)

こちらは総合体育館。非常に立派な施設だ。

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このあたりは海抜ゼロメートル地帯で基本的には平坦な道路が続いている。

坂道の多い皇居以西とは全く異なる街並み。


公園北の巨大な施設はオリナスと名付けられている。

店舗が100店舗入っており、駐車場は1000台。老若男女、人がたくさん集まりそうだ。

ここだけで生活が完結するシステムが出来上がっている。

オリナスに行けば生活を織りなせる。

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さて…運河だ。

運河があるのが見える。

江戸時代には運河を利用して、物を運んでいたようだ。

栃木の田舎者出身の私にとって、この辺りは江戸というイメージがある。

江戸というのは東京と違ったイメージだ。

東京のイメージは地方出身者の集合体で、故に部外者でも入り込みやすいのだが、

江戸、江戸ッ子のイメージは短気、刺青、酒と祭り好き、博徒、等。これは落語のイメージそのままだが…

そういった荒っぽさがある所に入っていくのは若干気がひける。

江戸っ子の気質をアースダイバーの中沢新一は面白い説で解釈している。

「徳川家康が大阪城攻めの時に重用した瀬戸内海の漁民の一族を連れてきて、佃島に住まわせその一族は勢力を拡大し、それが江戸ッ子の気質の元になっているという説」

たしかに海洋漁民と言われば、確かに江戸ッ子の気質はそれっぽいので面白い説だと思う。


文明開化時 1876-84(明治9~17年) 

運河は天神川と称されているが、今では横十間川と呼ばれているようだ。川幅が十間(18m)あることからその名前がついたようだ。

歴史は古く1659年に作られた。

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天神川が近くにあることと、海抜が低いことから田んぼが非常に多い。

この時代より20年ほど遡った江戸時代の地図によると、今のオリナスあたりは

下総高岡藩 井上筑後守正和

近江膳所藩 本多隠岐守康融

僕のいる辺りは、亀戸村入会との記載があった。

明治末期 1906-09(明治39~42年)

明治初期ののどかな田園地帯も30年でガラリと変わる。

この時期、明治の経済成長の時期なのか、工場がバンバン立っている。

工場はある程度の広さを必要とするために、宅地に向かない田園地帯に作りやすく、ある程度の広さでも安く買えたのだろう。

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日清紡もこのころ出来たようだ。(明治40年創業)

♪ニッシンボー名前は知ってるけどー♪

と言うCMで有名。今や紡績糸はほとんどやっていないコングロマリットだ。

錦糸公園は兵器支廠倉庫(へいきしきょうそうこ)となっている。兵器などの補給する機関の倉庫だったようだ。

その北には精工舎。いまのオリナスがある所。

これは時計で有名なSEIKOだ。この区域に日清紡やSEIKOなどの大企業を発見した事は収穫だ。


やたらと池が多いので、水と工場の街のようにも見える。

ちょっと掘ったら水が溜まるような感じなのだろうか。それなら土地も広く安く手に入れられそうだ。

また、兵器倉庫の東に突然寺が発生する所も面白い。

1850年代の地図にも無かった。明治末期に突然発生した寺だ。そして次の地図では姿を消す。お寺はコンビニより多かった。

関東大震災前 1917-28(大正6~昭和3年)

1923年の関東大震災は、お昼時ということもあり、火災と相まってこのあたり一帯は壊滅的な被害を受ける。

錦糸町近辺はもともと湿地帯の軟弱地盤であるために、被害が大きかった。

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焼け出された人たちは、新たな土地を求めて、新宿や笹塚に移動していったのは前回までの過程で学んだ。

この地図は地震発生前で工場も多いが、地震発生後の戦前の地図からは工場は多少なくなった。

昭和戦前期 1928-1936(昭和3~11年)

関東大震災後、壊滅的な被害を被ったこの辺りを、当時の原敬内閣は帝都復興を旗印に整備し、その1つとしてこの場所を錦糸公園とした。

路面電車の多さが目立つ。住民の足として活躍したのだろう。

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この辺りは特に空襲による被害がひどく、錦糸公園には13000体が仮に埋葬されたと記録がある。多くの人が集まり楽しい公園になっていることで、それが慰霊になっているのではないかと思う。


高度成長期前夜 1955-1960(昭和30~35年)


わずかの期間に「震災」に「空襲」という壊滅的な被害を被ったこの辺りだが、復興をはたした。

公園の北には精工舎の表記があった。建物は変わっていないので、戦前の記載が抜けていたのだろう。もしかすると戦時の機密情報なのかもしれない。

日清紡あたりには亀戸球場ができた。2面に渡って野球ができる広さがある。

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バブル期 1984-1990(昭和59年~平成2年)


バブル期には公園内に体育館、検察庁、裁判所ができる。のちに野球場となる。

精工舎はいまではオリナスとなった。

公園横の工場の数々もいまでは大きなビルになった。

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まとめると錦糸公園は

明治末期からは軍用地で

関東大震災後に公園となり

戦時中は仮埋葬所だった。

現在では来訪者の憩いの場所、生活の拠点として親しまれている場所になった。


この近辺に住めば衣食、映画などは他の場所に行くことなく済ませることができる便利な街だ。

下町だから家賃が安いイメージがあったがそれは勝手な思い込みで、家賃相場は結構高めだった。


最後に亀戸天神。

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亀戸天神は想像していたよりも立派だった。

勝手にうらぶれた神社を想像してしまっていた。

地図で見る限り、この橋の配置は明治期から変わっていない。

左に視線をむけるとスカイツリーがあり、今昔の眺めを楽しむことが出来る。

今回もなかなか面白く出来た。

運河に、SEIKO、日清紡、錦糸公園の変遷、オリナス。

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