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【千代田区】田安門と2体の銅像

今回が記念すべき100回目となりました。
お付き合いいただきありがとうございます。

子供と連れ立って色々なところに行きはじめたのが疫病真っ最中で、人の混雑はそれほどなかったですが、これから人が増えるということを考えると色々なことに気を付けなければいけない所も増えてくるかなと思います。

田安門にいってまいりました。 

♪九段下の駅へ向かう~人の波~
♪僕は一人~涙をうかべて~
♪千鳥ヶ淵~月の水面~振り向けば~
♪澄んだ空にひかるタマーネーギー

この歌は爆風スランプの「大きな玉ねぎの下で」

1989年リリースで僕が中学校3年生の頃の歌。田舎住まいの当時意味が分からぬまま歌っていました。

18歳で上京してからもとくに興味がなく過ごしていましたが、40歳を過ぎ地図に興味をもちはじめ、位置関係が色々とわかり始めていた頃、年末のテレビでこの歌が流れてきたのです。

九段下 千鳥ヶ淵 月の水面 坂道 光る玉ねぎ

これらの言葉がバチっと合致し

「あっ!!!これ武道館のことじゃないか!」

と思わず言ってしまいました。

気が付くのに30年。遅すぎるゆえに衝撃でしたね。

で、細かいこというと九段下の駅へ向かう途中で振り向いたら千鳥ヶ淵じゃなくて牛が淵なんじゃないかと思います。

田安門と後ろに控える日本武道館

田安門という名前の通り、江戸時代は田安徳川家の屋敷がありました。

大江戸今昔巡り 1860年頃

田安中納言慶頼(徳川慶頼)1828~1876年
三男は第16代徳川宗家の徳川家達

隣は当主不在の清水徳川家 
清水徳川家8代当主の徳川好敏は1910年代々木練兵場で日本で初めて飛行機で空を飛んだ人の一人です。


田安門の高麗門と櫓田安橋見附
田安橋見附とありますが・・・

この写真明治初期あたりのものですが、本当に田安門なのかな??堀がみょうに浅い気がするし、地図の表記も木製の橋が掛かってるわけじゃないんですよね。

ただ千代田区観光協会のHPには「土橋となりました」という表記があるので、土橋となる前の写真なのかなと思いながら1860年頃の地図にはどう見ても土橋なので「?」ですね。地図より写真のほうが時期が早いのかもしれません。

田安門から靖国神社方面を望む 堀は深いですね。ただ古い写真のほうは手前で石垣が崩れているので今のように深くは見えないのかも。


明治初期の地図を見てみます。

明治初期9~19年 1876~1886年

やっぱりガッチリとした土橋ですよね。あの写真はいったいどこなんだ。

田安門より内側は 病室 営倉 近衛歩兵営

となっています。

東京名所図絵 明治23年 兵営の他に火薬庫、炊事場、病室とあり 地図と合致しています。


明治後期にいってみましょう。

明治39~42年 1906年~1909年

田安門の前に銅像が2体ある表記があります。

現在、田安門の前には2体の銅像が建っています。

薩摩の軍人 大山巌(1842~1916年)

大山巌像
大山巌

鹿児島県出身、内大臣、陸軍大臣、文部大臣、貴族院議員、元帥陸軍大将

墓所は栃木県の那須にあり、遺品は自衛隊の宇都宮駐屯地に多数あるのだとか。私は栃木県出身なので多少親近感がわいてきます。


長州の官僚 品川 弥二郎(1843~1900年)

品川弥二朗像
品川弥二郎

長州出身(山口県萩市)、吉田松陰門下、内務大臣、獨協大学設立

品川弥二朗の銅像は明治40年にできたようです。

京浜所在銅像写真 明治43年
京浜所在銅像写真 明治43年

あれ?いまと銅像が違いますね。

現在の銅像は劇画的ですがこの当時の銅像は現実的に見えます。

品川の銅像は明治後期に建てられますが、大山の銅像が出来たのは大正8年1919年でもともと国会あたりにあったと千代田区観光協会の案内にありました。またご子孫の説では参謀本部(今の憲政会館)に建っていたとのこと。

しかし、明治後期の地図にはすでに2体の銅像は地図に書かれているんですよ。

不思議ですよね。まだ大山さんは亡くなってないです。

一体は長州藩士 品川弥二郎、もう一体は??

で、しらべたら出てきました。もう一体は・・・

陸軍大将 川上操六
明治38年に九段上に設置。

ということで、九段上には当初は品川弥二郎と川上操六の銅像が建てられていたことがわかりました。

2人の関係性は亡くなった日が近いというくらいしか共通点が見出せませませんでしたが、当時は銅像ブームだったようで様々な人の銅像が建てられています。

皇居周辺には大村銅像(大村益次郎)、伊藤公銅像(伊藤博文)、後藤伯銅像(後藤象二郎)、小菅銅像(陸軍の測量担当)、大隈銅像(大隈重信)、北白川宮銅像(皇族)楠公像(楠木正成)等の銅像は皇居近辺に記載がありました。 ほかにもたくさんの銅像がそこかしこにあったようです。

大部分は戦時中の金属供出で無くなりましたが、現在もこうして立派に祀られているという姿をみると、明治政府は今も続いているということが言えるのでは?

なお、北側にある雨宮邸は

雨宮敬二郎 甲武鉄道で財をなし、軽井沢の開発者としてもしられるやり手の経営者宅です。

大正時代にいってみましょう。

関東大震災前(大正5~10年)
東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖 大正11年の田安門

木がうえられているせいか、今よりも道幅が狭いように思えます。


昭和戦時中の地図をみてみましょう。

昭和3~11年

さすがに近衛歩兵営があるところは改描されています。

雨宮邸は安田邸(昭和10年建築)となりました。安田財閥の始祖、安田善次郎の次男である安田岩次郎邸です。

安田岩次郎の姪がオノ・ヨーコで幼少時代をここで過ごしたんだとか。

戦後、1950年代の高度成長期前夜をみてみましょう。

昭和30~35年

田安門が無くなっている!!!
枡形門もなくなっている!!
銅像も一体なくなっている。

近衛1,2連隊は警察学校へ。建物は変わっていないようにみえますが、まさに激動の昭和です。

Wikipediaには1963年(昭和38年) - 田安門の解体修理が行われたと書かれていましたが、ちょうどその時期なのでしょうか。

地図では改描だと思っていましたが、昭和11年頃の航空写真をみると田安門らしきものがないんですよね。

探してみると田安門の屋根の部分は昭和初年に破損により撤去されていたということ。戦後に修理してオリンピック前に現在の姿になったようです。

日本武道館ができたのは東京オリンピックの年、昭和39年 1964年です。

1964年の東京オリンピックは東京の転換点ですね。
高度成長期前夜の地図も面白いです。

安田邸はフィリピン大使館へ(現在は大使公邸)

バブル期 ほぼ今の姿になりました。


日本武道館は2020年の東京オリンピックにあわせて大改修されました。

枡形門の中からの武道館
櫓と娘
櫓と私
武道館に向かって多くの人がこの田安門をくぐります。
高麗門を内側から撮影。


今回は田安門と2体の銅像について調べてみました。

田安門は大正後期に壊れ、東京オリンピックで再建
田安門前の2体の銅像は現在は大山巌、品川弥二郎ですが、以前は品川弥二郎、川上操六だったことがわかりました。


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