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【港区】三田四丁目

8月のある日、夜中に釣りに行こうとして(妻子が帰省していたため)、自転車でコチラ方面にきてみました。

控えめに言って自転車にくるには遠かったです。そしてママチャリで幹線道路を爆走できるほど根性すわっていません。
疲れましたね。

三田四丁目。

そして、思いついたところで東京時層地図を開いてみました。

三田四丁目 思えば遠くに来たもんだ


上の写真と上の地図は方向がズレています。
写真でまっすぐ直線にみえるのが東側。左側の道路が北側です。

北に松平容保邸
南に寺院がたくさん。

松平容保はこの後に京都守護になります。新撰組の大ボスです。

ここまで彼が幕府に重用されていたのは
曾祖父が御三家の水戸藩主だったことと、会津藩自体が保科正之(徳川秀忠の息子)を祖としているゴリゴリの親藩だったということがあるでしょう。

内部抗争でガタガタになっている御三家水戸藩より規模は大きかったようです。

だから戊辰戦争で最後まで戦っていたということか。

東海道は高輪から三田あたりまですごく寺院があります。
裏に会津松平邸という親藩があるということは、ここは東海道の防衛ラインとして想定していた場所なんだなと思いました。

ここが突破されたら、増上寺が最終防衛ラインということになりますね。




現代の地図

現在地は国道一号線となります。

北には慶応義塾大学、イタリア大使館

池のある場所は、綱町三井倶楽部庭園

南側には最初のフランス公使宿館跡、元和キリシタン遺跡などがあります。

江戸時代と同じく寺院が林立しています。

歴史的にも見どころのある場所ですね。

江戸時代の地図にみられた一番大きな敷地だった功運寺は1922年に中野に移転したようです。

明治9~19年 1876~1886年

半分は手書きの味がある地図で、功運寺と大増寺の表記もあります。

北は旧大名の蜂須賀邸、黒田邸
蜂須賀というと豊臣秀吉の話にでてくる野党の親玉というイメージですが、養子が続いて13代目の実父は11代将軍徳川家斉。

この時期は蜂須賀茂韶の時代と思われるので徳川家斉の孫。世が世なら将軍様になってもおかしくない。

薩摩の政治家、松方正義邸

薩摩の政治家の中では黒田清隆は酔って船の大砲を発射するなど酒乱で人気がなく、西郷弟と大山巌は軍人で政治野心が乏しく、残ったのは大久保利通の番頭だった松方ということで、だから総理大臣になれたのだという評が一般的なようです。とはいうものの、財務にも明るく、優秀な人だったのだとおもいます。

子供は26人と脅威の子沢山。


明治39~42年 1906年~1909年

○南側に普連土女学院があります。なんか冗談みたいな名前ですが、内村鑑三と新渡戸稲造の助言で、キリスト教会(クエーカー)が建てて、津田梅子の父の津田仙が普連土の当て字をしたのだとか。

クエーカーってオートミールが有名ですが、イメージであって関係ないのだとか。

おもいだしました、この辺りは昔調べたことがあります。題名をひねりすぎて記事を発見できなかったです。5年前の話なんですね。


○福沢諭吉の学問のすすめを読むと

父をともにし母をともにする者を兄弟と名づけ、父母兄弟ともに住居するところを家と名づく。しかるに今、兄弟、父をともにして母を異にし、一父独立して衆母は群を成せり。これを人類の家と言うべきか。家の字の義を成さず。たといその楼閣は巍々ぎぎたるも、その宮室は美麗なるも、余が眼をもってこれを見れば人の家にあらず、畜類の小屋と言わざるを得ず。妻妾さいしょう、家に群居して家内よく熟和するものは、古今いまだその例を聞かず。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000296/files/47061_29420.html

という一説があります。

「妻や妾が一緒にすんでいる家は動物の小屋であると。」

いや、僕が言っているんじゃない福沢諭吉先生が言っているんです。

これってお隣さんの松方正義のことを言っているのではないかと思っていたのですが、

慶應義塾三田移転は1871年
「学問のすすめ」は1872年
松方邸は1877年に三田に建築だから、直接松方をさしたものではないか・・・

○ このあたりは蜂須賀、松方、鍋島、徳川、松平、浅野と有力者の住居が多いですね。

三田の徳川邸は田安家

浅野総一郎、浅野財閥の紫雲閣が有名どころでしょうか。

紫雲閣の隣に住んでいた江戸っ子が洗濯物を干すのが目に入って目障りだというので、石塀を高くしたら、江戸っ子は洗濯物を高い場所にほし、さらに石塀を高くしたら、江戸っ子はさらに洗濯物を高い場所に干したという話が印象に残っています。


浅野財閥 紫雲閣



関東大震災直前 大正5~10年 1916年~1921年

○三井邸ができます。

三井10代目がジョサイア・コンドル設計で1913年に完成。
関係者以外は立ち入り禁止という東京の秘境。

逆にですよ、一般的に開放されていないということで、江戸時代の武士階級、明治大正昭和の華族階級が味わえるのじゃないかなとも思えます。

現在三井俱楽部にある池も、大名屋敷のものを残しているし、文化遺跡を継承するには民間に開放しないほうがいいのかなと地図を見て思います。

もうちょっと頑張れば三井倶楽部にちらっといけそうなツテはありそうなんですけど・・・平日だと予定がねぇ・・・しがない時給労働者なので。




昭和初期戦前 昭和3~10年 1928年~1935年

○松方邸はイタリア大使館になりました。

松方家は松方正義の長男、巌があとを継ぎ、十五銀行頭取をしていましたが、銀行破綻の責任をとり邸宅を手放したとか。

北側は大使館に財閥にと一般人立ち入り禁止区域のような感じですね。


高度成長前夜 昭和30~35年 1950~1955年

この近辺の国道一号線が整備されたのは戦後の事なんですね。

いまひとつ道路にくわしくないのですが、この区間だけずっと国道っぽくなくて、でも国道一号線は江戸時代からあって、戦後に制定されたということだから、それまで狭かったようです。

関東大震災後の都市計画で幹線道路は太くなり、河川は整備されとおもっていたけれど、戦後まで手付かずだったことを考えると、大学、寺院などがあって話が通りにくかったのかもしれません。

この区間の道路は関東大震災後も過去の地図からわかるように狭かった道路のようです。

バブル期 昭和59年~平成2年 1984年~1990年

イタリア大使館、三井倶楽部ともに都内で大名庭園が残っている数少ない場所ではないでしょうか。惜しむらくは気軽にいける場所ではない、まさに東京の秘境。慶應だって気軽にいけませんね。黙って入ることはできるでしょうけど・・・できるのかな。

三井倶楽部の北もけっこうおもしろそうだったので機会をみてとりあげたいとおもいます。


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