見出し画像

【港区】芝大神宮周辺

4月頃東京タワーに行った時の話。芝公園は見どころはたくさんあるので良く行くことが多い。

この日はひと悶着あり。

東京タワーでモノを買わなきゃ許さないという娘。
毎回気軽にモノを買っていたらお金無くなってご飯食べれなくなっちゃうよという私。
ならば奥さんに買ってあげるために突然Tシャツが買いたいといい泣き出す娘。
3000円。そんなもの買えない。じゃあ、クレープでも食べようかという私。

しかしあまりにも並んでいるし、そんな待っていられない。もうヤダやめた増上寺にいくわ。と増上寺にいったものの、御朱印も長蛇の列。ここもやめだ他に行こう。

そういえば、芝大神宮には行っていないな。と訪れてみました。

やってきました芝大神宮

おやっとおもうのがこの神社だけ周りの場所よりうず高くなっているんですよね。

盛り土してあるのか、それとも元から小山のようだった場所に作ったのか。

江戸末期の地図をみると

芝神明 飯倉神明宮 別当 金剛院

と記載されていました。

この辺りは増上寺の領域。

しらべてみると金剛院は増上寺の末寺かとおもったら、寛永寺の末寺の金剛院ということのようでした。

増上寺=浄土宗
寛永寺=天台宗

なんとなくのイメージですが、家康が浄土宗の厭離穢土欣求浄土の旗印を掲げて戦って、江戸幕府のブレーンだった天台宗の南光坊天海が上野寛永寺に寺を建てているから、徳川の菩提寺といっても宗派が別れるのかなと考えました。

なお、増上寺の西側にはこれも幕府の要職を務めた以心崇伝関連の金地院があります。

家康の死後、東照大権現の名称を巡って、天海と崇伝の間で争いが起こったということは芝東照宮の宮司さんからお聞きしたのですが、結果的に崇伝は失脚し、江戸城北の丸にあった金地院はこの地に移ります。宗派は臨済宗南禅寺派。

御朱印頂けるようなので、この辺りの徳川関連御朱印集めも楽しいのではないでしょうか。


現代の地図

芝大神宮西側の増上寺大門を境に南北に渡って道路があります。

東京時層地図の明治初期の地図をみてみましょう。

なんと水路がある。
これは増上寺末寺敷地とそれ以外土地の区切り。

芝大門から西は増上寺関連の土地だったことがわかります。

ということは、飯倉神明宮 別当 金剛院 というのは寛永寺で間違いない。増上寺とは組織が異なるから区域の外に出されていたようです。

『東京名所図絵』,東雲堂,明23.3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/764237 (参照 2023-05-18)

この時期のお社をみるとそう高い場所にない感じですね。やはり盛り土かな。

9月16日から21日より例祭ありと書かれているのがこれがいわゆるダラダラ祭というものでしょう。

「境内には楊局店多くありて 紅唇粉顔」

楊局店の意味がよくわからないけど、字面的に柳、局、唇に紅、顔に粉で、女性関連のお店が多かったのでしょう。
なにするかは正直わかりません。今でいう接待を伴う飲食店なのか性風俗なのか。それで話違ってくると思うんですよね。
東京名所図絵にも女性が描かれています。

明治後期

明治後期

増上寺敷地だった場所と外界を区切る水路が明確に見えます。

江戸時代の区切りは水路だったんだなと今更ながら。

現代だと埋め立てられているからわからないんですよね。

大正時代 関東大震災直前

大正時代関東大震災前

海軍水路局跡だった場所に日本赤十字社ができます。

大正元年建築 妻木頼黄 つまきよりなか 妻木は明治建築の三大巨匠。
ジョサイア・コンドルに学び、東京府庁、日本橋などを設計。

現存するものでは現神奈川県歴史博物館の横浜正金銀行。ちなみに江戸時代までさかのぼると増上寺の学寮です。

日赤本部の図 "Japan to-day; a souvenir of the Anglo-Japanese exhibition held in London 1910" by Mochizuki Kotaro 望月小太郎, Tokyo, "The Liberal news agency", 1910

地図の水路には橋が掛かっている様子が見えるので健在なのでしょう。
この時代もまだ水路があったのは驚きです。

今後の予想でいくと関東大震災後に復興計画で一気に埋め立てられる・・・と予想。


関東大震災後、昭和10年前後

昭和10年頃 

ほらほらやっぱり予想通り。スゴイな関東大震災後の都市復興計画。街並みもガラッと変わる。区割りすら変わっている。

戦後 高度経済成長期前夜

戦後1955年頃

赤十字の南に東宝芸能学校ができました。ウルトラマン系の俳優さんがここを卒業していたようです。

共立女子薬科大というのは後述する牧野元次郎さんが設立にかかわり、1930年に設立。2008年に慶應義塾と併合。なるほどだから慶應共立キャンパスって名前なんだ。

バブル期

芝大門から東西に分かれて、西側は公共的な施設、東側は人々が生活を営む場所という感じでしょうか。


次は神社敷地内にあった構造物をみてみたいとおもいます。

貯金と災厄碑 

この碑にある牧野元次郎 1874年(明治7年)~1943年(昭和18年)
不動貯金銀行(りそな銀行)の創業者で長期の定期預金や定期積金を考案。
心霊研究もしていたというユニークな人

倉は焼けても貯金は焼けぬ 名言です。

貯金塚

根気根

何事も根気

金言だと思います。

この神社で御朱印頂いたら、ショウガ飴が付いてきたのですが、ショウガも根だし、根っこ繋がりがあるのかも・・・・

灯籠の横の掲示板には神社所蔵の書類や文書などが記載されていました。江戸時代の建部巣兆の箱根詣図、古文書では1337年足利直義の祈祷依頼書、1588年の吉良氏の朱印状などがあるようです。世田谷城の吉良氏かな。
境内 綺麗にされていて狭い空間ながらも神聖な雰囲気を感じました。
力石 50貫 約190kg これを持ち上げるんですから力自慢はいるものです。そんな化け物みたい人間いるかと思うところですが、ジムなんかでは想像を絶する重量でスクワットしている人もいるからいるんでしょうね。
金杉藤吉という人が片手で差し上げたと書いてあります。金杉藤吉は江東区、江戸川区、川崎市、静岡県清水区にも力石があるようです。まさに抜群の力持ち。現代でもベンチプレス日本記録260kgとかもう人知を超えた次元の人々がいますね。物事は自分の物差しじゃ測れないんだということを教えてくれます。でもまあ実際に見ないことにはね・・・190kgを片手でなんてねぇ


この後は芝大門周辺で、たこ焼きを食べにお店に入ったら居酒屋で(銀だこ居酒屋)そのあとにたい焼きを食べ(鳴門鯛焼本舗)、まだ家庭内禁止令が出ていなかったカラオケに行き、結果的に楽しい休日が過ごせたのでした。

改めて振り返ると芝大門を境にガラリと街並みが変わる感じがしました。やっぱりこの辺りは面白いなぁ。




いいなと思ったら応援しよう!