【千代田区】井伊掃部頭邸、参謀本部、憲政記念館
ふと思い立って国会議事堂前庭にいってまいりました。
憲政記念館のひなびたお庭の草木を楽しみながら、ジュースでも飲めたらなと。
道路の反対側に国会関連の売店があるんですよ。国会関連グッズとか売っている。
そこの自販機のジュースが安い。だいたい50円引きです。ペットボトルのジュースが90円で買えちゃうんです。安いですよね。
訪問者に優しいのねなんて人のいいことを考えていたら、安いのは国会で働く人の為の福利厚生で安くなっているんだとか。
ちなみに国会の周りは人通りがすくなく、お巡りさんしか立っていないのは、全部地下で繋がっているからだそうで、職員さんは議員会館と国会を地下で移動しているようです。地下通路には数十メートル置きにお巡りさんがたち、常にネームプレートをチェック。裏返しになっていたら怒られます。
という話を国会で働いていた方に聞いたような聞かなかったような・・。
「特別なジュース売り場があるからついてきて」なんて娘にいいながら歩くと、なんと憲政記念館は新築工事真っ最中。えーっ・・・・
ということで売店でジュースを買ってから、国会前庭に行きました。
そして国会前庭北側へ。工事中ってことだけど、入れる部分はどのくらい残っているんだろ。
憲政記念館には見事な桜やいろいろな木々があったとおもうのですが、なくなっちゃったか移植したか・・・常連のような口ぶりですが、ここにくるのは4年ぶりっていう。
皇居も近いということもあってか、ゴマダラカミキリや池にはアメンボ、イトトンボなどがいました。
土曜日ということもあってか、訪れている人は数人。混雑する都内の公園の中では珍しいスポットだと思います。
池の端あたりから後ろを振り向くと奥に桜田門が見えます。
足下をみると赤レンガの瓦礫が転がっていました。
これって明治にあった参謀本部の瓦礫なんじゃないかと妄想しております。
ということで、今回はこの場から、東京時層地図と大江戸今昔巡りをみてみたいと思います。
まずは現在地
大江戸今昔巡り 1855年頃
江戸末期最大の暗殺事件といえば桜田門外の変でしょう。
1860年3月24日8時 井伊直弼は桜田門外にて水戸、薩摩藩浪士に襲撃され死亡します。
当時はここから現場が見えたはずだから、大変な騒ぎだったでしょう。
襲撃犯17人はほとんど襲撃時死亡か事件後斬首。
襲撃犯生き残りの1人、海後磋磯之介(かいごさきのすけ)という人が居るのは気になります。
なんと吉川英治がその生涯を「旗岡巡査」という短編にしています。
内容はサキノスケが桜田門外の変後に逃げて、それを匿った女性と一番親しくしていたけれど密告した女性がいて、そこから10数年経ち、サキノスケが警官となってある事件に遭遇。被害者の妻と加害者がその女性たちだったというもの。青空文庫で読めます。
桜田門外の変の実行犯ではない襲撃関係者17人もそれぞれ自刃。
一方、守備側の彦根藩士は19人が死亡か切腹 重傷者は下野に流罪。
加害者も被害者も同等の処罰をうけるという喧嘩両成敗的な感じ。
平等といえば平等。侍のメンタリティですね。
被害者っていうのが存在しない。こうしてみるとサムライってそう気安く名乗っちゃいけない存在ですな。めっちゃ怖い。
「サムライジャパン絶対に負けられない戦い」とかいって負けてもなにもないわけだし。
と、桜田門外の変に触れるたびに書いてしまう気がする。
明治元年は1868年ですから、事件の数年後に幕府は崩壊、明治の世になるわけです。
明治9~19年
参謀本部はイタリア人美術家のカペレッティによる設計
カペレッティは靖国神社の遊就館も設計しているようです
明治建築といえば都内だと近衛師団司令部や法務省などが現存していて有名ですが、参謀本部は赤レンガではないようにみえる。
転がっていた赤レンガは参謀本部のものだとおもっていたんだけどなぁ・・・
明治後期 明治39年~42年 1906年~1909年
1894年の明治東京地震で参謀本部は被害を被り機能は北側の建物に移転。
陸軍の測量部となります。
水準原点が出来たのは1891年だから、地震で機能移転というより、そもそも測量部として使うことありきだったのかも。
大正期 関東大震災前
昭和初期戦前 昭和10年前後 1935年前後
昭和16年 1941年には参謀本部の機能は市ヶ谷に移転。
この写真拾い物ですが、ちょっと違和感があるんですよね。桜田門からとった写真ですが、そこからみて国会議事堂こんなに大きいかな??っていう疑問が。
参謀本部が赤レンガっぽく描かれていいるのは僕の妄想と合致していてうれしいです。
以前とった写真で場所は多少ちがいますが見比べてみました。
さて、参謀本部といえば、手持ちの資料でありました。
こちらです。
軍事機密 統帥網領 1928年 昭和3年 刊
文中にある「ピンチはチャンス」今みんなが使っている言葉、これを生み出したのがこの統帥網領を解説している大橋さんです。これは驚き。
兵法書といえば孫子が有名ですが
その孫子も呉王闔閭が居なくなった後の後半生は消息不明なんだから、結局は敗軍の将の兵法書だ と その孫子の本に書かれていました。汗
いわば統帥網領も敗軍の将の兵法書ですが、なにかのおりに読み返そうと思います。
そういえば僕が「孫子」に興味持ったのも毎日つらくてしょうがないから、厳しい時代の人の本にヒントがあるかもしれないと思ったのがきっかけでした。
戦後高度成長期前夜 1955年頃
軍関係のものは水準原点以外の残っていません。戦後の写真ではほとんどが焼野原となっていました。参議院会館が出来ていたのですね。憲政記念館は1960年竣工。
バブル期 1990年代
高度成長期にかけてかなり整備された様子がみてとれます。
あの赤レンガがはたして参謀本部の瓦礫だったのでしょうか。
江戸時代は幕府の重鎮井伊邸、明治大正戦前までは陸軍の中枢、今はのんびり過ごせる公園。
また行きたい場所です。
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