【中野区】中野長者橋は過去の話
中野区の山手通りには中野長者橋という高速道路出入口があり付近に長者橋があります。
中野に住むお金持ちが市民のために私財をなげうってつくった橋。というイメージ。実際この地にはお金もちが住んでいました。そのお金持ちの名は鈴木九朗(1371~1440年)室町時代の人。
武士でしたが商売で成功してこの辺り一帯を開拓したそうです。
都庁の裏の熊野神社はこの人が建てた神社で、娘が亡くなったので仏門に入り、自宅を現在の成願寺に改築しその生涯を終えました。
中野長者橋
現在の地図
昭和10年頃の地図 山手通りがあり、中野長者橋もありますね。
中野長者には伝説があります。
鈴木九朗がお金持ちになったのは神仏のおかげで金銀ザクザクが湧いて出るようになり、そしてあふれる財宝を隠すために人を雇い、橋をこえて現在の新宿公園近辺に金銀を埋めた後、運んだ人を殺して神田川に捨て、運ばせては殺し、運ばせては殺し、いつしか橋は「姿見ずの橋」と呼ばれるようになりましたが、ある日、嫁入り前の娘が熊野神社の池に蛇になって飛び込んでしまいショックをうけた鈴木九朗は、自宅をお寺にして仏門に入ったという伝説。
秘密のものを運ばせて殺してしまう話って似たような逸話は結構聞いたことありますね。
大正時代の地図を見てみましょう。成願寺が見えます。ここが鈴木九朗の自宅だったところ。あれれ?
あらあらあら、中野長者橋がありませんよ!!
ないですなこれは。山手通りは戦前に作られたもので、大正時代にはなく、この近辺の神田川は1本ではなく3本の川。
当然明治時代後期にも中野長者橋はない。いや待て、近くに橋があります。その場所にいってみましょう。
移動しました。大正時代の地図。この辺りを中野長者橋と呼んでいたのかな。成願寺からも近いし。
西新宿方面に向かって写真をとってみました。道路しかないです。
地図を見たところの現在では当時の中野長者橋は無くなり、今は道路になっていました。完。
ところが・・・
中野長者の伝説をよくよく読むと、なんと、中野長者橋は現在の淀橋の事を指しているのでした。
ここが淀橋。新宿から青梅街道を西にいくとあります。
だけど・・・成願寺から淀橋を通って熊野神社に行くのはちょっと回り道な気もします。川を3本こえなければいけないけど南から行った方が近道では?なんて。
橋は「姿見ずの橋」「いとまごいの橋」と呼ばれ忌み嫌われていたので、江戸時代に入ってから三代将軍徳川家光が
「淀橋」
と変えるように命じたというのが新宿区の公式見解です。
明治時代後期の地図。そしてこの明治期になっても淀橋は忌み嫌われていたのです。
によると
大正4年の11月に中野の浅田家まで嫁入りがあり、淀橋を通らないといけないために、怨霊鎮護の祭典を行い仮殿をしつらえて数百名参列し、日枝神社の宮司以下10数名の神官が来て清めの祭をした。さらに新聞が書き立てたため、面白がってくる500何十人、有名人も関直彦(政治家)、柳田国男(民俗学者)、横山健堂(評論家)など
この会場では関直彦は迷信は愚劣であるというアロイニカル(皮肉)なお説教を長々とお説教し、柳田国男は迷信は民族心理上必ずしも破棄してはいけない理由を学術上から簡単に説き、関を反駁。山中共古(民俗学者)は中野長者に関する考証を話し、石橋臥波(民俗学者)は民俗学上、今回の催しは利益もあり興味もあるとの話で、会場は民族学会の総会のように感じた。最後は来賓客と一族が交互に万歳三唱して散会。
柳田国男がでてくるのはすごい。
昭和に入ってから成願寺にある仏像には男性の骨と女性の骨が納骨されていて、これが室町時代のものとわかり、火葬の状況から身分が高く、成願寺の設立者である鈴木親子の可能性が高いかもしれないとの記事もネットで見ました。
この話スゴイですね。
中野長者の伝説は伝説として、鈴木九朗は実在し、娘が亡くなって仏門に入り、寺を建てそこに遺骨が埋葬されたことはほぼ事実。では淀橋が450年以上忌み嫌われていた本当の理由はなんでしょうね。
今回のまとめ
・現在の中野長者橋は昭和初期に造られたもの。
・中野長者の伝説にでてくる橋は淀橋。
・淀橋は大正時代に大々的なお祓いを行った。
・神田川は大正時代はこの近辺は一本ではなかった。
・山手通りができたのは昭和に入ってから。
地図をみて最初の読みは外しましたが、今回もけっこうな勉強になりました。