【中央区】晴海臨海公園周辺
晴海臨海公園にたびたび訪れています。(子連れでも釣りを挟みたいから)
アクセスとしては電車は不便で、有楽町からバスが出ています。
晴海トリトンで降りて歩くと徒歩5分くらいです。
公園自体はこじんまりとしていますが、晴海の運河が目の前に広がり解放感もあるので好きな場所です。
付近には超高層マンションが3棟建っています。
私はそこの住民のような顔をして公園や広場で遊んでいますが、一時間近くかけてここに来ている部外者です(笑)
イメージ的には東京オリンピック村があり、最近に超高層マンションが建ち、護岸が整備されて、近代の新しい形の住宅街というイメージなのですが、東京時層地図をみてみると果たしてどうか。
それでは東京時層地図をみてみましょう。
現在の地図
月島と勝鬨の南側となります。地図でみると近くみえますが、勝鬨駅から現在地まで徒歩10分以上かかるというなかなかの距離です。
晴海臨海公園はかなり好きな場所です。
(私は東京が大好きな地方出身者ですので、大抵好きといってしまいますが・・・調べれば調べるほど点が線になってそれが面になっていくのでそりゃ好きになります。)
明治9~19年 1876~1886年
○ この時代はなにもありません 北には佃島と石川島の人足寄せ場跡と砲台跡があるのみです。
明治39~42年 1906年~1909年
○ この時代もなにもありませんが、明治になっての月島以南の開発が急ピッチ。月みたいな形だから月島と呼ばれていたのかなと思われます。
この時期に月島に移り住むというのは、ある程度覚悟が必要ではないでしょうか。いまのように親水公園化していないから眺めも良くないでしょうし、陸路が越中島とつながる相生橋しかない。月島渡しが一日何十往復もしていたのもうなずけます。
大正5~10年 1916年~1921年 関東大震災直前
○ 現在の勝どきにあたる部分も月島です。
昭和3~10年 1928年~1935年 昭和初期戦前
○ 昭和6年 1931年 戦前に埋め立てが終わったようです。関東大震災後だから、関東大震災の瓦礫を使って埋め立てをしたのかなと思ったら
明治~昭和期の船の航路を作るための隅田川改良工事「東京湾澪浚(みおさらい)」の土砂を利用して埋め立てていた宅地事業の一環でした。
晴海は月島4号地として完了。
昭和8年 1933年には晴海に東京市庁移転計画がもちあがりますが、これは頓挫。東京市庁は当時有楽町にあったので距離的に近く移転先としては可能性ある場所です。
さらに昭和15年 1940年に開催予定だった万国博覧会の開催地になりますが、日中戦争の激化により中止。
勝鬨橋は万博のメインゲートとしてこの時につくられます。勝鬨という名称が戦時中を感じさせます。
高度成長前夜 昭和30~35年 1950~1955年
晴海一帯は 戦後に米軍に接収されて返却されたのは昭和32年 1957年
ということはこの地図は返却前後ということになります。
射撃場と飛行場があるのがその名残でしょうか。
その後、住宅公団に住居用地として提供。
現在のトリトンスクエアの場所にはすでになにかしらの建物が建っていますが、その住宅公団の住居用地となるようです。(晴海団地)
バブル期 昭和59年~平成2年 1984年~1990年
晴海の東側が国際貿易センターとなっています。
東京国際見本市会場
国際貿易センター 1959年開場 1996年解体で役割は東京ビッグサイトへ移行。
1960年代に入ると東京モーターショー、80年代になるとコミックマーケットが開催。
バブル期もいまと違う風景が広がっていたようです。
2020年の東京オリンピックではオリンピック選手村がつくられます。オリンピックはコロナで1年延期になって、2021年開催もコロナ禍だったためになんとなく地味な感じで終わったという個人的感想をもっています。
晴海は出来て90年余りの埋め立て地、空き地も多いのでこれからもますます発展していくと思われます。今のうちに晴海を享受したいとおもいます(笑)
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