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【港区】新橋 烏森神社

新橋にある烏森神社に立ち寄ってみました。

千駄ケ谷にあるのが「鳩の森」ハトノモリ
新橋にあるのが「烏森」カラスモリ

過去に地図巡りをする過程でカラスモリ神社のことに触れる機会があったのですが、ついにここを訪問することができました。周辺は新橋駅の雑居ビル群でちょっと不思議な雰囲気。

昔作ったブログ記事によりますとこんなことが書かれていました。この当時は「である調」です。

このあたりは昔は砂浜で、一帯は松林でありその松林に烏が集まって巣を作っていたために烏森となったようだ。
この地名は昭和7年まで使われる。
烏森神社は藤原秀郷(栃木県では有名人)が平将門の乱の鎮圧後にこの地に烏森稲荷を作ったのが始まりとされる。
ということは成田山(将門征伐のために作られた)と同じような関係にある。将門を祀っている神田明神とは歴史的には敵対関係にあるといっていい。
アメノウヅメノミコトを祀っている数少ない神社である。

https://note.com/aratanamai/n/ncd7a33f5655d

3年の月日が経過して、この地を訪問することができました。

非常にこじんまりした神社です。
ピンク基調
縁起

神社のホームページによりますと

地名の由来
烏森の地は、古くこのあたりが武蔵の国桜田村と呼ばれていた時代には、江戸湾の砂浜で、一体は松林であった。その為当時この地帯は「枯州の森」あるいは「空州の森」と言われていた。しかもこの松林には、烏が多く集まって巣をかけていた為、後には「烏の森」とも呼ばれるようになった。それが烏森という名の起こりである。明治以降昭和7年まで町名として使われていたが、その後新橋に改められ、今ではJR新橋駅の烏森口としてその名をとどめている。

http://karasumorijinja.or.jp/%e7%83%8f%e6%a3%ae%e7%a5%9e%e7%a4%be%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6

神社の創始
平安時代の天慶3年(940年)に、東国で平将門が乱を起こした時、むかで退治で有名な鎮守将軍藤原秀郷(俵藤太)が、武州のある稲荷に戦勝を祈願したところ、白狐がやってきて白羽の矢を与えた。その矢を持ってすみやかに東夷を鎮めることができたので、秀郷はお礼に一社を勧請しようとしたところ、夢に白狐が現れて、神鳥の群がる所が霊地だと告げた。そこで桜田村の森まできたところ、夢想のごとく烏が群がっていたので、そこに社頭を造営した。それが、烏森稲荷の起こりである。

http://karasumorijinja.or.jp/%e7%83%8f%e6%a3%ae%e7%a5%9e%e7%a4%be%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6

神社の隆昌
明暦の大火(世界三大大火の一つに数えられる俗名 振袖火事)が起こった際、江戸市中は焼け野原となり、もちろん当社の周辺も大方焼けてしまった。ところが烏森稲荷社だけは不思議にも類焼を免れたのである。これは神威の致すところと考えられ、以降当社に対する信仰は日に日に厚くなっていった。
また、椙森神社(日本橋)柳森神社(神田)と併せ「江戸三森」として古くから崇敬されている。明治6年にはこれまでの烏森稲荷社の社名を烏森神社と改め、新橋烏森の守り神として多くの人々の信仰を得ている。昭和46年には御社殿を造営し現在に至っている。

http://karasumorijinja.or.jp/%e7%83%8f%e6%a3%ae%e7%a5%9e%e7%a4%be%e3%81%ab%e3%81%a4%e3%81%84%e3%81%a6
かわいらしいグッズです。

神田明神などの将門を祀った神社と反対にこちらは将門討伐の為の神社になります。

反将門系の神社といいますと、この烏森神社を含めて都内にいくつかありますが、どこも藤原秀郷の名前がでます。

藤原秀郷立ち寄りすぎじゃないかと思ったりします。
北新宿の鎧神社も藤原秀郷由縁でした。

当時50歳前後の(栃木)の藤原秀郷が(東京)にきてそんな各地を回るのかな・・・

かるく史実をなぞってみると、(栃木)の反朝廷的な武力勢力だった藤原秀郷が(茨城)で起こった平将門の反乱を討伐するためのリーダーとして、朝廷に担ぎ上げられ、毒をもって毒を制するような形のようで、栃木と茨城で戦していたようなので、そもそも(東京)に来るのかな?

藤原秀郷の拠点は栃木県南部、かりに小山市あたりとすると、将門の拠点は茨城県の坂東市で40kmほど。普通に考えて直接攻めに行きますよね。

それにしても伝わっている話の多さでは徳川家光とか藤原秀郷かっていうくらいです。とはいえ、栃木県出身者として藤原秀郷の活躍は嬉しいですね。
調べるまで京都の役人が栃木県に来たと思っていたので。

個人的には将門公関連だとなんか身体に障りがあるんじゃないか説があり、
以前、将門塚、将門塚を祀っていた酒井雅楽守家墓所にお参りした数日後、コロナになり、再び将門塚に参拝した後に風邪気味で体調ガタガタとなったので、将門公関連との相性は今一つなんじゃないかと思ったり。

とはいっても僕の出身地の神社は平将門が乱を起こすにあたり、祈願した神社とも伝わっているので、相性が悪いわけはないとおもうのですが・・・。とはいっても50kmは離れているのでわざわざ行くのかなと思ったり。

まあ1080年前の話なので。

では東京時層地図をみてみましょう。

殆ど新橋駅といっても過言じゃないです。サラリーマンの街、新橋。

しかしこの辺りで働くサラリーマンっていうのは世の中的にみたら上位のエリートなんですよ。しょうもないオヤジっていう演出をしているテレビの罪だとおもいますね。人を下げても自分は上がらないのにね。

明治時代後期

新橋駅は「からすもり駅」としてあります。この当時のしんばし駅はもっと西にありました。

大正時代

大正期にはいるとしんばし駅との表記が。

駅舎らしきものもありますが、どうも「旧新橋停車場」と現在復元されているものとは違いそうです。旧新橋停車場はのちの関東大震災で倒壊。

昭和初期戦前

1955年頃 高度経済成長期前夜

戦後、西新橋はヤミ市ができ、暴力団と愚連隊と武装華僑と警官隊がバチバチにやっている時代だったようです。

ちょっと北にいくとNHK、東電、勧業銀行、第一ホテル等の高級施設がありますから、戦後の混乱期ですね。


バブル期

現在公園となっている場所は桜田小学校 平成3年に廃校ということなので廃校直前の地図。

ニュー新橋ビルは1971年竣工 中にはいってみましたが時代をかんじました。

こちらは新橋名物のSL C11292 実はこの車両は東京を走ったことがないということです。新橋開通100年を記念して設置されたのだとか。

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