【中央区】銀座和光近辺
銀座を通りすがりましたので東京時層地図を開いてみました。
銀座には縁がありません・・・買うものもない。
服をお店で店員さんと話しながら買っていたのは20年前 いまじゃインスタグラム見ながら、ファッション師匠の格好をユニクロやメルカリで買って格好を寄せるだけです。
よく「ユニクロで満足度やテンションがあがるのか」という話がありますが、服を組み合わせて自分なりにまとまっているかなとか、ちょっとギリギリのラインかなと思ったりとか、着た時の気持ちの変化を楽しみとしているので、結果的に満足度はあります。
仕事が私服なのも幸いしています。スーツだったら週末の私服は季節ごとの一張羅ということになるでしょう。
そうなると組み合わせの変化を楽しむというより、自分が上質な服を着ている満足感のほうに振れるかもしれませんが・・・持つ負担というのもありますからね
銀座に関する思い出といえば、17年くらい前に友達の結婚式が晴海であって、二次会が銀座のパセラだったことくらい・・・幹事の一人だったので、二次会の場所を求めていろいろとお店を探していました。
来てくれる人がお腹いっぱいになるようにと思って料理を多めで選んだけれど、終わったあとに料理が一杯残っちゃって二次会は料理は大したことなくていいんだと思いました。
二次会ではパソコンで稚拙な動画を作って流したりしていました。当時は動画をパソコンで作って流すというのは一般的ではなかったので、意気揚々としていましたけど。
友達の結婚式も今となっては本当にあったのかどうかわからないような思いでです。
さてさて、和光周辺から東京時層地図を開いてみましょう。
現在の地図
まさに銀座のど真ん中。テレビが街頭インタビューで身なりの良い母娘に
「今日の天気はどうですか」
「あついですねー、もう半袖ですよ」
というお決まりの事が繰り返される場所でもあります。
区割りから江戸時代は町人街だったことが連想されます。
明治9~19年 1876~1886年
江戸時代末期の地図をみると、新両替町と尾張町の境目が現在地。
明治初期のこの地図では北側に銀座という文字が見えます。
銀座、三十間堀、尾張町というのが周辺の地名。
1872年に銀座大火があり、和田倉門の兵部省(旧会津藩主屋敷)から火がでて銀座、築地の4800戸あまりが焼失。(ざっくりいうと東京ドーム20個分)
これによって区画整理と銀座レンガ街と呼ばれる街並みがつくられることになります。
国会図書館デジタルを当たってみた所、一番古い記事で明治10年 1877年だったので銀座大火以降ということになり、大火以前の記事はありませんでした。
大火前はそれほど有名ではない町人街だったのでしょう。
明治39~42年 1906年~1909年
明治初期の地図では文字がつぶれていましたが、銀座周辺はいろいろな町名がありますね。
そして出世地蔵
という文字。これは現在、銀座三越の9階テラスにあります。
銀座三越のホームページを参照すると
由来は
明治の初めに三十間堀に住んでいた石工の弟子さんが、お地蔵様を彫りたいとおもっていたところ、師匠が許してくれなかったので、師匠が旅にでたタイミングでお地蔵様を彫り、戻ってきたときに見つからないように界隈に埋めたというもの。
その後、お地蔵様は弟子の夢枕にたったので改めてお祀りしたとか、護岸工事で出てきて、芝増上寺で祀られたとかという説があります。
いずれにしてもた1873年以降1902年以前に祀られたとのことでした。
「路上から百貨店の屋上に上り詰めたので人々が出世地蔵と命名した」と書かれていますが、これは地図からみると否でしょう。
祀られた当時から出世地蔵と名前がついています。
ということは、出世にまつわるなんらかの出来事が最初からあったということ。
これは一度訪問しないとなぁ
ちなみに私は出世しなくていいです。重荷は背負えない(笑)でも家族が幸せにやっていけるだけのお金は欲しい(笑)
(この出世地蔵の話は2回目のような気がします・・・・書いているうちに思い出してきました。まあ話の内容は違うから良いか(笑))
大正5~10年 1916年~1921年 関東大震災直前
この地図の数年後に起こる関東大震災によって銀座地区は焼野原に。
昭和3~10年 1928年~1935年 昭和初期戦前
関東大震災後なので区画整理で道路の幅が大きくなっています。
三越の名前があります。
1930年 昭和5年 銀座三越 開店
その向かいにあるのが銀座のシンボル、和光。
和光の歴史といいますと
明治14年 1881年 銀座の采女町に服部金太郎が服部時計店(セイコー)を創業。
明治28年 1895年 初代服部時計塔を現在地に建てて営業開始。
関東大震災後の
昭和7年 1932年に現在の和光が完成。セイコーグループが100%株主。
和光がセイコーだったなんて全く知りませんでした。
たしか白金に服部邸があったはず。こちらも関連して訪れてみたいですね。(入れませんが・・・)
明治33年のゴシップ雑誌のようなものに
「服部金太郎、毛利元就を気取る」
という記事がありました。
意訳すると 田中金太郎は当時有名だった田中平八(天下の糸平)に似るといわれて、いやいや私は毛利元就を目指しますよと言ったもの。
毛利元就はともかく、田中金太郎も田中平八も天下の糸平も120年前の古い話で、その方達はもう忘れさられている存在です。ってまた僕が知らなかっただけかなぁ。
高度成長前夜 昭和30~35年 1950~1955年
松屋、三越、松坂屋と銀座の有名店舗が並びます。
日本の商業の中心、この時代まさに隆盛極めんとする前の日本。
河は埋め立てられ、松坂屋の南東に東京温泉なるものが。
調べると興味深い。
1951年開業 1993年閉業
オーナーは許斐氏利(このみうじとし)
この人はWikipediaによるとどこまで本当かはわかりませんが、裏社会の人のような印象です。
東京温泉はトルコ風呂(現在のソープランド)の元祖のような存在と言われていますが、性的サービスは無かったそうです。
半裸の女性に垢すりされるのは性的サービスではないといえば、ちょっと境目がわかりません。
このあたりは詳しいことを研究されている方がきっといるのでお任せします。
トルコ風呂という名称がトルコの人の不評を買って、ソープランドと名称変更となったのは1984年以降。
ラッパーのUZIさんはお孫さんで
そう考えると昔テレビでやっていたフリースタイルダンジョンというラッパーのZeebraさんとUZIさんが司会進行していた番組があったのだけれど、
Zeebraさんは赤坂のホテルニュージャパン火災で有名な横井英樹の孫
UZIさんは銀座の昭和の怪人許斐氏利の孫
アクが強すぎる。
番組は出演者がダンジョンのモンスター(ラッパー)を倒していってボスにたどり着くという構成だったけれど、実はダンジョンの入口にいる昔は悪かったけれど今は気の良さそうな人達が一番のボスだったという。
バブル期 昭和59年~平成2年 1984年~1990年
バブル期の銀座というのはどういった感じだったのでしょうか。
子供の頃に行ったことがあるかどうか。
銀座の歩行者天国、都内では数少なくなった歩行者天国の一つですので、銀座名物としてあり続けて欲しいですね。
今回も思いのほか学びがありました。奥さんに自慢しとこう。
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