【渋谷区】北谷稲荷神社
北谷稲荷神社(きたやいなりじんじゃ)
ここは渋谷と原宿の間にあり代々木体育館の南側に鎮座されています。
今回は北参道口から入りました。
境内はコンクリート化されながら神聖感を感じる場所です。訪問客は我々しかいませんでしたがこの空気感は聖域そのもの。
今年からは御朱印をいただこうと思い始めました。置き書きの御朱印が多い昨今、こちらは直書きで非常にありがたく頂戴いたしました。気に入った場所ですので今度はお札を購入しようと思います。
境内には目を引く記念碑があります。
治水記念碑
この碑を意訳してみますと
貴族院議員伯爵の中川久任さんが碑銘を書きました。大正9年9月30日、暴風で練兵場の岡部池が決壊、濁流が流れ数百戸が被害にあい、区長の武川實(みのる)さん、区長代理の松原弥右衛門さん、区会議員後藤仙太郎さんが寝食を忘れて対応にあたり、陸軍や義援金で治水工事と北谷祠を修復しました。お金は資金7千5十円。(今にするといくらかは比較が難しくまちまちです。国立博物館の入園料で換算すると、4000万くらい。もうちょっと多くてもいいかなとおもいます。)神社総代らは祠殿を翌年10月に建てました。すばらしい出来上がりになり、有志でこの碑を建てることにしました。
という感じでしょうか。
大正9年9月30日で調べてみるとこの時に国勢調査があり、当時の原敬総理大臣は原敬日記で大雨で心配しているという記述もありました。
さらに調べてみると
防災新聞情報無料版で
○大正9年東日本風水害(90年前)
1920年(大正9年)9月30日~10月1日
9月20日グアム島南東洋上に発生した台風が、30日朝土佐沖から遠州灘を通過し房総半島をかすめて北東に進んだ。
関東地方の大部分と福島県、宮城県が暴風雨に見舞われ各地で水害が発生。特に神奈川県では65人が死亡・行方不明となり、家屋全壊・流失200戸、同半壊150戸、同床上浸水3544戸、同床下浸水1万2147戸。茨城県で91人死亡・行方不明、家屋全壊・流出498戸、同半壊217戸、同床上浸水5928戸、床下浸水1万448戸の大災害となっている。(出典:神奈川県刊「神奈川県災害誌(自然災害)」、国会資料編纂会編「日本の自然災害」)
というのがあったようです。台風が来ていたんですね。
そのほか
神社の一角にある赤い祠を撮ろうと思ったのですが、赤い祠の向かって左側に顔認識がでました。こうなったことは過去に一回だけしかなかったので驚きでした。
iPhoneで顔認識がでるのはめったにでなくて、なにか霊的なものがあるのかなと思っちゃいますね。普段風景にかざしても顔認識なんてでないですから。
過去には浜離宮庭園で撮ろうとしたときに顔認識がでたくらいです。
こちらはその宇田川出世弁財天の由来
渋谷川と宇田川の合流地点(今の渋谷駅の高架下近辺)に江戸時代に大きな松があり、そこにはお地蔵さんがあって人々の信仰をあつめていたそうです。(お地蔵さんは宇田川地蔵として現在は東福寺に現存)
昭和5年に区画整理の為、松を取り除く作業をしたところ、関係者に多くの負傷者がでてご神木と騒がれ、道玄坂の人々が弁財天と龍神の祠をつくり、松とともにお祀り、松は枯れたが弁財天の効験はあらたかでご信仰が盛んになり、戦後に国鉄用地に遷されたが、昭和50年にこの地に遷座。とのこと。
やはりなにかありそうな気がします。
その他の逸話
ある女性が若かりし頃にこの神社で仲間とたむろしていて、隣にある学校の生徒に「うわー不良がタバコ吸っているよ」と煙たがられながら
神社には
「結婚したいけど、浮気するようなチャラい人じゃ絶対嫌だ」
とお願いした結果、そもそも浮気など眼中にない人と結婚したとか。もう20年近く前の話ですが今でもご夫婦仲良くやっているみたいです。
縁結びの神様でもあるのではないかとおもいます。
御祭神は宇迦之御霊 宇迦は稲をさし、稲が生る すなわち稲荷と。五穀豊穣の神様であらゆる願い事の神様ということでした。
明治初期
神社の表記もなく北側にあるはずの池もないですね。「豊」の字で消されてしまっているのかどうか。
明治後期
代々木練兵場の南にありました。北谷稲荷。そして池もあります。
この池が石碑の銘文によると岡部池。
岡部というからには岡部家があったのでしょうねと、お世話になっている大江戸今昔巡りのアプリをみてみたらありました(江戸時代末期1860年頃)
そこによると
神社は北谷稲荷社 小川織部
北側は和泉岸和田藩 岡部筑前守長寛 ながひろ(1809年~1887年)五万二千石
岡部家は長寛→長職(ながとも)と引き継がれて
長職は 桂内閣で司法大臣、東京府知事。
270名以上いる藩主から新政府の大臣という人は少なく
(堀田正養 ほったまさやす 通信大臣)
(蜂須賀茂韶 はちすか もちあき 文部大臣、東京府知事)
貴族院議員は多数あれど大臣は3人のみ。時世もあるでしょうが優秀な人だったみたいですね。
長職からは14人の子がおり
岡部長景 東条内閣での文部大臣。
村山長挙 朝日新聞社主。
岡部家は三菱グループの岩崎家との婚姻関係も2重にあり、明治~昭和にかけての日本の有力者であったことが見てとれます。
話はもどりまして岡部邸、岡部池は明治以降は陸軍練兵場になったようです。
道路の奥が岡部池のあった場所。
現在は代々木体育館の駐車場です。
大正時代
大正9年に台風が起こって岡部池が決壊するわけです。石碑に書かれていた話はこの時代の出来事。
昭和戦前期
戦時中につき、軍事施設は白抜きです。代々木練兵場も例にもれず。
戦後、高度成長期前夜 1960年頃
代々木練兵場はアメリカ軍の将校が住むワシントンハイツとなりました。このワシントンハイツが原宿文化の発祥ともなります。
池は水がないですが家は建てていないので宅地には不向きだったのでしょう。
バブル期 1980年代後半
代々木第一体育館、第二体育館、岸体育館が出来上がります。
竣工は東京オリンピック直前の1964年9月、丹下健三設計。
岸記念体育会館は日本スポーツの総本山で、近代スポーツの父である岸清一の遺言で駿河台にできたものが、この地に移転改築。
岸清一は三菱グループの弁護士をつとめており、駿河台にあった岩崎邸の跡に岸体育館を建てました。代々木体育館の敷地一帯は三菱グループと血縁関係の岡部家が住んでいた土地。偶然ですが関係性が見出せました。
こちらは北側の参道から見た図。ほとんど崖ですね。
地形図をみてもこの地は鹿の角のように海岸線が入り組んだ土地の一部であることが見てとれます。