【目黒区】船入場調節池周辺
中目黒駅から山手通りを南下すると、目黒川沿いに広場があります。
船入場調節池と名称がついています。
YouTubeでこの場所で釣りをしている人がいたので、釣れるのかなと思って行ってみました。
結果的に岸から水辺までがメチャメチャ遠くて、簡単に釣りできる感じではありませんでした。実際にはウグイ、シーバスなどが釣れるらしいです。
ちょっと下流の目黒区民センターあたりの目黒川は時期によってはバスクリン色で異臭を放っている場合が多いので、ここまでシーバスが上ってくるとは驚きです。良く生きていけるな~。
都内の下水道率は99.5%なのですが、雨が降って水量が増えると処理しきれずにそのまま流れちゃうので全部処理されているとはいいがたい所でしょう。
この近辺は訪れる機会が少ない割には思い出深い場所です。
というのも、今から7年と少し前に、この近くのビルに入っているクリニックで娘が産まれたからです。
その日の午後1時頃に産気づいたということで、奥さんとともにタクシーに乗って病院に。まだ子宮口が開いていないということで、外で散歩をしてくださいといわれ、そこから寒風吹きすさぶ1月の目黒川沿いを三時間ほど彷徨い歩いていました。
目黒川沿いにある福砂屋さんでカステラを買ったり、ニトリで商品を見て回ったりしていました。
奥さんはそもそも産気づいているので、商品をみて「これいいねー」なんて言っている余裕はなく、うーうーと言いながら歩き歩き、川沿いのベンチで座って休み休みを繰り返していました。あの時の心もとなさは今でも思い出します。
3時間ほど歩いて日も傾いたので、病院に戻ってもう産まれるという体制になったのですが、ベッドに上がるよりも床で寝ていた方が楽だと言うので、床で七転八倒の苦しみ。
よく言われるように、男はなにもできません。
精々テニスボールで腰を押すくらいのことくらい。その間、会社の人から「いつ産まれるんだ、明日のシフトはどうすんだ」みたいなメールがあって知らんがなと返したのを覚えています。
22時くらいには産まれるんじゃないかという見立てはズレこみ、産まれたのは午前3時。
出産を立ち会ったのですが、よく聞くような産まれて感動で涙があふれだすということはなく、産気づいてから病院に行って14時間。無事に産まれてくれたヤレヤレという安堵感があったのを覚えています。
助産師さんは非常に責任ある大変な仕事であると同時に、毎日が新しい命の誕生に立ち会うというわけですから、具合の悪くなっている人を見るのが多い看護師さんの仕事の中でも唯一希望のある仕事なんじゃないかなと思いました。 住宅販売を生業とする方に「我々はハッピー産業です。人の人生の一番良いときに立ち会えるから。」と言われて感銘をうけたのと似た感想を持ちました。
娘の誕生日が来るたびに、病院の事、福砂屋、ニトリ、助産師さんのことを思い出します。
ではでは、思い出話はこれくらいで地図のほうに。
現在の地図
○ 北側の槍が先交差点付近は、以前、朝倉住宅を調べたことがあったので多少わかる場所です。
現在、外国人が多く住む高級マンションは江戸時代は目黒富士という富士塚があり、明治期に岩倉邸になり、そののち、東武鉄道社長の根津邸になり、昭和になってその敷地に東急東横線が横切るという形になった場所。
この高級マンションでは2019年に宝石など十数億円空き巣事件があったりと、とんでもないお金持ちが住んでいるだなとの印象をもちました。
過去の経緯からみて、この高級マンションの持ち主は根津家なのかなとおもって調べたところ現在も根津公一さんとのことで。青山の根津美術館ってこちらの根津さん。
東武鉄道は今も根津家がトップだから、まさに日本の上位数パーセントのお金持ち。なんですけれど2024年の長者番付50に載っていない・・・んなことあるのかな??
○ 現在地近辺は、山手通りの交通量が圧倒的でそれに気おされてしまい、地図でみるようなお寺があり神社がありというような雰囲気を感じ取ることはできません。
ただただ交通量の多い、あわただしい場所という印象です。
明治9~19年 1876~1886年
○ 周辺で目立つのが正覚寺
1619年開山
仙台伊達藩三代藩主伊達綱宗の側室の三沢初子が開基
伊達政宗で有名な仙台伊達藩は、3代目伊達綱宗の代で内部抗争が起こり、仙台藩は改易寸前となり綱宗は21歳で隠居。子供の綱村が2歳で藩主に。
三沢初子は4代藩主綱村の母で、正覚寺は仙台藩ゆかりのお寺ということになります。三沢初子は亡くなった後に彼女の両親が眠るこの地に葬られたのだとか。
地図上から、古くからこの地で親しまれた寺院ということがわかります。
大名の側室が寺院の設立にかかわっている件は代々木八幡に続いてこれで2件目という個人的発見です。(代々木八幡は移動改築)
明治39~42年 1906年~1909年
○ 北側が岩倉邸、三田用水。槍が崎という名称はすでにあるようです。
中沢新一さんのアースダイバー的にこういう岬には縄文の遺跡があったり古代の聖地があったりするんだよなぁと思っていたら、近くには猿楽塚という古墳がありましたね。
三田用水は笹塚で玉川上水と分岐してこちらに回ってきています。三田用水は昭和49年に廃止。
○ 東側の三田用水と別所坂のところにある、39・1と書かれた三角点の場所が気になりますね。これ古墳跡じゃないのかな??とおもったら、新富士という浮世絵にもなっている有名な富士塚でした。
○ 目黒川沿いの一帯は田んぼが多いですね。こういった場所は水害の危険性が高い場所なのですが、目黒区ハザードマップでみるとむしろ危ないのは中目黒駅より北の場所。
○ 現在の中目黒駅周辺は水が引き込まれており、水車の表記もあります。水車があったことは今では想像するのも難しいです。
○ 正覚寺に鬼子母神の表記。
記念碑の表記もあります。この時代の記念碑というと大抵は表忠碑だったりするけれど今は無さそうなので無くなってしまったのでしょうか。
正覚寺のご本尊は鬼子母神像とのことで調べていたらnoteに正覚寺さんのページがありました。ホームページもおしゃれ。
2年以上前より更新が止まっている状態なのでお元気なのでしょうかと気になるところです。
関東大震災直前 大正5~10年 1916年~1921年
関東大震災前も中目黒駅にあたる場所には水車があります。
目黒川は曲がりくねっており、山手通りもありません。
この後に関東大震災がおこります。
昭和初期戦前 昭和3~10年 1928年~1935年
関東大震災後
○ 東急東横線が通り、山手通り、駒沢通りが通り、目黒川が整備されて真っ直ぐになりました。
現在みえる風景は関東大震災後の都市計画によってつくられたもの。
あまりに広範囲の驚くべき復興計画。
今の東京の基礎を作っているのだと地図をみるたびに思います。
○ 戦災焼失区域図をみると、544あたりは焼失地域になっていますが、中目黒駅周辺は焼失地域となっていませんでした。
高度成長前夜 昭和30~35年 1950~1955年
○ 付近に東京衛生試験場という建物があります。本館は神田にあり(戦後世田谷へ)目黒のこちらは製薬工場だったようです。
○ 駒沢通りは中目黒まで都電が走っていたようです。(玉川電気鉄道 昭和42年廃止)
○ 共済病院は1930年 昭和5年に東京海軍共済組合病院として開設。なるほどー戦前の地図には表記がなかったのは海軍の関連施設だったからか。隣ですからね。
ちなみにこの当時は隣はオーストラリア軍を中心とした占領軍のエビスキャンプになっています。1956年 昭和31年返還。
バブル期 昭和59年~平成2年 1984年~1990年
○ 共済病院のとなりのエビスキャンプは金属材料技術研究所に。
旧科学技術省の所管の国立研究所だったようです。
1995年 平成7年 筑波研究学園都市に移転。
激しい車の流れと、歩道と車道とのつなぎ目の悪さに疲弊しながら自転車で走り、この場所が見えるとほっとします。
この場所はちょっとした広場になっているので、たまに催し物が開催されています。
そういえば昔ここで娘に水風船をねだられ結局買ったのを思い出しました。
その時の写真 2022年9月 まだ幼稚園の時 まさかここで写真を使うことになるとは。