見出し画像

【中央区】西銀座通り マロニエゲート銀座周辺

なにかのついでに銀座に寄ってみました。なんのついでかは、ちょっと記憶が定かではありません。

そしてユニクロに行ってみようとユニクロを目指し、その目の前で東京時層地図を開いてみました。目の前には道路があり車が行き来しています。

この道を北に進むと東京駅八重洲口です。
2023年4月現在 1階から4階まではユニクロです。UNIQLO東京 ユニクロ関連企業のGU、プラステ、セオリーなども入っています。
現在の地図。南には数寄屋橋、北には鍛冶橋、GHQ本部跡など気になるワードもありますね。実際のところ、なんの跡形もないコンクリートジャングルっていう感じだから今一つといえば今一つなんでよね。そして天気によっては暑い。まさに東京砂漠といったところ。
明治初期の文明開化時期 明治9年~19年あたり。2023年4月からの朝ドラ、らんまんで主人公の神木隆之介さんが上京した理由でもある1877(明治10)年の第一回内国勧業博覧会の時代でもあります。

なんと目の前の道路は堀だった。ということはここは江戸城の外堀。外堀通りか。

でも西銀座通りって旗があったから外堀通りという認識がありませんでした。

地図に目を転じますと

外堀内側の今の有楽町駅あたりは陸軍練兵場と監軍本部、東京鎮台工兵営と軍事施設が並びます。

監軍本部は後の師団司令部なので、明治政府当時の軍事の中枢ということがいえるとおもいます。

江戸時代の地図には松平相模守慶徳と書かれているので鳥取の池田家の屋敷。地図もこの当時は大名屋敷を流用していますね。写真は探しても出てきませんでした。

鳥取池田家といえば

上野公園にある通称黒門っていうのはこの鳥取池田家の江戸屋敷の表門じゃないかな?

2020年12月訪問時の上野黒門
この門はもともと因州池田家江戸屋敷の表門で丸の内大名小路(丸の内三丁目)に建てられていたが明治25年芝高輪台町の常宮御殿の表門として移建された。のちに東宮御所として使用され、さらに高松宮家に引き継がれる。表門は昭和29年に此処に移築して修理を加えたものである。


外側の現在地あたりは西紺屋町 染物屋さんの町だったようです。

明治後期になると様相がガラリとかわります。

鍛治橋門、数寄屋橋が撤去。
三菱グループが占拠し、市役所と府庁ができあがります。

銀座の出世地蔵というのはこの時期にもあるんですね。次いったときに写真撮ります。

なぜ軍事施設が軒並みなくなったか。

1878年(明治11年)に起こった近衛兵による反乱事件、竹橋事件の影響があるのではないかと思われます。

これによって日比谷練兵場も1886年(明治19年)年青山に移転。皇宮警察ができることとなりました。

なんで反乱を起こした近衛兵じゃなくて、東京鎮台が遠ざけられるのかがちょっと説明できないですが(汗)


大正時代 関東大震災前

有楽町橋という橋が架けられました。

堀の反対側に有楽座という建物があります

日本初の全席椅子の洋風劇場で明治41年開場 関東大震災で崩壊。新劇場園の拠点となっていたとか。

田舎者の私にはピンときていませんでしたが、有楽町近辺は最先端の文化の発信地域だったようです。

「有楽町で逢いましょう」とか古臭いイメージしかないけど、たまにゴリゴリにお洒落してる人とすれ違う事ありますね。考えてみたら銀座と目と鼻の先。



昭和初期戦前

鍛冶橋と数寄屋橋の間に新しい橋がさらに2本架けられています。写真をみるとけっこう川幅も広い。

数寄屋橋のあたりに旧朝日新聞本社ができているので時代的に昭和の初めころですね。日本劇場はできていないようにみえるので昭和2~8年の間といったところ。



高度経済成長期前夜1955年頃

北のほうからどんどんと埋め立てられていく様子が見てとれます。
たぶん現代だったら外堀を生かす方向だったんでしょうね。

そして府庁って都庁のことだったか!

東京都庁って有楽町に在ったんですね。

このブログの出発点が、西新宿の東京都庁にいって東京時層地図をひらいてみたら、浄水場でびっくりして興味を持ったっていうのが始まりの一つでもあるから、移転前の都庁が有楽町にあったということはしりませんでした。

都庁1960年

この建物の感じ、霞が関の省庁っぽい。

バブル期

今の東京国際フォーラムって旧都庁跡地だったんですね。

また追って更新しようとおもいます。

いいなと思ったら応援しよう!