【中央区】西銀座通り マロニエゲート銀座周辺
なにかのついでに銀座に寄ってみました。なんのついでかは、ちょっと記憶が定かではありません。
そしてユニクロに行ってみようとユニクロを目指し、その目の前で東京時層地図を開いてみました。目の前には道路があり車が行き来しています。
なんと目の前の道路は堀だった。ということはここは江戸城の外堀。外堀通りか。
でも西銀座通りって旗があったから外堀通りという認識がありませんでした。
地図に目を転じますと
外堀内側の今の有楽町駅あたりは陸軍練兵場と監軍本部、東京鎮台工兵営と軍事施設が並びます。
監軍本部は後の師団司令部なので、明治政府当時の軍事の中枢ということがいえるとおもいます。
江戸時代の地図には松平相模守慶徳と書かれているので鳥取の池田家の屋敷。地図もこの当時は大名屋敷を流用していますね。写真は探しても出てきませんでした。
鳥取池田家といえば
上野公園にある通称黒門っていうのはこの鳥取池田家の江戸屋敷の表門じゃないかな?
外側の現在地あたりは西紺屋町 染物屋さんの町だったようです。
鍛治橋門、数寄屋橋が撤去。
三菱グループが占拠し、市役所と府庁ができあがります。
銀座の出世地蔵というのはこの時期にもあるんですね。次いったときに写真撮ります。
なぜ軍事施設が軒並みなくなったか。
1878年(明治11年)に起こった近衛兵による反乱事件、竹橋事件の影響があるのではないかと思われます。
これによって日比谷練兵場も1886年(明治19年)年青山に移転。皇宮警察ができることとなりました。
なんで反乱を起こした近衛兵じゃなくて、東京鎮台が遠ざけられるのかがちょっと説明できないですが(汗)
有楽町橋という橋が架けられました。
堀の反対側に有楽座という建物があります
日本初の全席椅子の洋風劇場で明治41年開場 関東大震災で崩壊。新劇場園の拠点となっていたとか。
田舎者の私にはピンときていませんでしたが、有楽町近辺は最先端の文化の発信地域だったようです。
「有楽町で逢いましょう」とか古臭いイメージしかないけど、たまにゴリゴリにお洒落してる人とすれ違う事ありますね。考えてみたら銀座と目と鼻の先。
鍛冶橋と数寄屋橋の間に新しい橋がさらに2本架けられています。写真をみるとけっこう川幅も広い。
北のほうからどんどんと埋め立てられていく様子が見てとれます。
たぶん現代だったら外堀を生かす方向だったんでしょうね。
そして府庁って都庁のことだったか!
東京都庁って有楽町に在ったんですね。
このブログの出発点が、西新宿の東京都庁にいって東京時層地図をひらいてみたら、浄水場でびっくりして興味を持ったっていうのが始まりの一つでもあるから、移転前の都庁が有楽町にあったということはしりませんでした。
この建物の感じ、霞が関の省庁っぽい。
今の東京国際フォーラムって旧都庁跡地だったんですね。
また追って更新しようとおもいます。