【江東区】東陽一丁目 洲崎跡地
始まりは深川公園をしらべているときに
明治42年に公園内にできた深川図書館の筆頭の寄付者が
洲崎遊郭三業取締 弁天町 佐藤宗栄さん
ということがわかり、洲崎遊郭ってなんなの?と興味を持ったことから始ります。
東陽町1丁目はかつて明治戦前にかけて、洲崎という吉原に次ぐ都内第2位の遊郭がありました。
戦後は東側が洲崎パラダイスの通称で復興し、洲崎パラダイス赤信号という映画もつくられました。(1956年)
原作は芝木好子さんの「洲崎パラダイス」
「橋を渡ったら、お終いよ。あそこは女の人生の一番おしまいなんだから」(「洲崎界隈」より)
それから程なく1958年の売春防止法によって洲崎パラダイスは消滅。
今回行く機会ができたので、洲崎を実際に歩きながら探索してみました。
現代の地図
明治9~19年 1876~1886年
明治39~42年 1906年~1909年
○ Wikipediaによると洲崎は1887年(明治20年)5月の埋め立てにより深川区に編入。
富阪に東京帝国大学校舎が新築されるため根津遊郭が移転、1888年明治21年 深川洲崎遊廓の開業式。
埋め立て完成から開業までのスピードがスゴイ。よほど急いでいたのだとおもわれます。
根津遊郭は一部の東大生がハマりまくって問題視されていたとか。坪内逍遥の妻は根津遊郭の遊女。
東大近辺にはまだ行っていないのでこれも宿題ですね。
それにしても一度入ったら、それこそ屍になって病院から出るしかないと思われるような洲崎遊郭の作りです。
○ 西に洲崎神社があります。洲崎神社は1794年創建 創建当時はこの辺りが海岸線で風光明媚な観光地だったとか。
境内には波除碑があり、高潮の被害を伝える為につくられたと・・・・これまた行かないと。宿題。
明治初期の地図を改めてみると神社のマークがありました。
関東大震災直前 大正5~10年 1916年~1921年
昭和初期戦前 昭和3~10年 1928年~1935年
高度成長前夜 昭和30~35年 1950~1955年
○ 映画の洲崎パラダイス赤信号はまさにこの時期。(1956年)
400円払えば本編を見れるみたいですが、そこまでの探求心はなく・・・
○ 戦後に遊郭として機能していたのは東側の弁天町2丁目といいます。そういわれて地図をみると、一丁目と二丁目はまるで違う。
おそらく空襲で焼け野原になった場所で、むりくり遊郭を建てた場所と、遊郭の機能がなくなって住宅地になった場所の差でしょうか。
1958年に売春防止法が制定。
1888年の洲崎開業からの70年の歴史に幕。
深川図書館も洲崎の佐藤さんの多大な寄付があってできたもの。深川図書館行ってないな、行かなきゃ。
後世に名前を残したいお金持ちは公共の建物にお金を出すと120年経っても名前が残りますよ。
バブル期 昭和59年~平成2年 1984年~1990年
東側を回ると壁のようなものがぐるりとこの街全体的に囲んでいるのはわかりました。
高潮予防するものなのか、もしくはそう簡単に人の出入りがないように防ぐものなのか。
感覚的ですが、洲崎自体周りの埋立地と比べて低いように感じました。
それは洲崎が明治後期に埋め立てられたと言うことも関係しているのかもしれません。
後発の埋め立て地はもっと埋め立ての傘を増したために高くなったと思われます。
ちょっと街歩き
さて、ここからは少し歩きましたので、この写真を含めながらこうと思います大正時代の地図を参照とします
東京の歴史を知る上で重要な街歩きになったと思います。ありがとうございました。