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【品川区】南品川四丁目

この日は品川方面に行き、その後、子供の下校時間が近づいていたため、電車で帰るかレンタサイクルを使うか迷いましたが、最終的にレンタサイクルで帰ることにしました。
これは、その帰り道の東京時層地図です。

品川方面は線路の関係で思い通りに道を通れなくて往生しました。
もう自転車で行ったり来たりするほど若くはないんだなと思いましたね。
昔は電車が嫌いだったのですが、乗っていたら目的地に着きますもんね。

この場所から東京時層地図を開きたいとおもいます。


○ 今見るとこの道は第一京浜だったのですね。北の品川神社にはその昔に行って記事にしたことがありました。
当時は娘と品川から歩いていって、抱っこしたり肩車したりしながらいきました。「カンカンが走ってる~ブウブウも走ってる~」と上機嫌でしたが、肩車で足がしびれて泣きまくってしまい、どうしたものかと思いました。

当時の写真をみると2019年11月撮影だったのでもう5年以上前でした。読み返すと微妙にとんがっていました。

5年は長い。
懐かしいなと思うと同時にそんなことあったのかな、記憶の捏造じゃないかなという幻みたいな感じもあります。記憶ってデータのように保存してあるわけじゃなくて、思い出すときに再構築しているんですよね。だから記憶違いっていうのもあるし記憶の捏造っていうのもある。

私たちは記憶を頼りに世界を理解しているけれど、それが本当に正確かどうかはわからない。もしかすると、私たちの現実そのものも、もっと根本的な情報の投影に過ぎないのではないか。

実際、最近ではホログラム説というものがあって、宇宙全体が二次元の情報からできているという話もあるんですよ。

ブラックホールに何かが落ちると消えてなくなるように見えるけど、それって情報が完全に失われることになるから、物理の法則的におかしいらしくて、そこで「ブラックホールの表面に情報が残るんじゃないか?」って仮説が出てきた。

それが発展して、「宇宙もブラックホールと同じで、二次元の情報が三次元の世界を作り出してるんじゃない?」っていうホログラフィック原理が出てきたらしいです。

もしそうだとしたら、現実だと思っているものも、単なる情報の投影にすぎないのかもしれない。

そう考えると、確実にあったはずの出来事が、夢や幻のように感じるのも、実は不思議なことじゃないですね。

現代の地図 明治9~19年1876~1886年


○これは驚きました。
現在地のお寺の数の多さ。

お寺というのはいざというときの戦に備える場所だったようで、(偶然にもロンドンブーツの淳さんの(おしろツアーズ)という番組でもとりあげていたのを先週みました笑)

街道にある寺院密集地帯は江戸城への防衛ラインなんですよね。

東側に旧東海道があるから、その守の要所としても考えられていたようです。

○ 江戸時代末期の地図をみるとお寺地帯で、さらに現在のゼームス坂通りに沿って水路もあったようでした。
ゼームス坂は明治政府のお抱え外国人であったJ.Mジェームスという方が私財を投じてなだらかな坂にしたということです。

「ゼームス坂」の名前の由来は、江戸末期に来日し、明治期に創設期の「日本海軍」の発展に貢献したイギリス人・J・M・ゼームス(ジェームス)に因む。1887(明治20)年頃、この坂の途中に邸宅を構え、邸宅前の坂をなだらかに改修したことから「ゼームス坂」と呼ばれるようになったといわれる。

三井住友トラスト不動産 大正期・昭和初期の品川区域より

○ 品川神社の南に「裁判」と書かれている場所があるのでこの時代に裁判所でもあったのかな。

明治39~42年 1906年~1909年


○ 気のせいか旧東海道が狭くなっている気がします。地図の精度の問題だとおもいます。

○ 現在地の東側を「京浜電気鉄道」が南北に走っています 現在の京浜急行電鉄です。1904年(明治37年)5月、海岸~品川(八ツ山橋)間が開通。

○ ゼームス邸らしいものが確認できます 位置関係的には「日五日市」と書かれている「五」の部分の左側の南北にながい長方形の建物かと思われます。

○ 北側には品川神社と在原神社が確認できます。在原神社のHPをみると仲はあまりよくなさそう。5年前に調べた時もそうでしたが・・・
江戸時代の地図をみると
品川神社には牛頭天王社、在原神社には貴船明神社と書かれていました。規模はそれほど大きくない。明治以降の廃仏毀釈で神社とお寺の力関係はかなり変わったと思われます。

○ 西側に1898年 明治31年ペイント会社ができています。いまもこの地に本社をおく日本ペイントです。 創業が明治18年ですからすごいですよね。一時、バイクのタンクを玉虫色のマジョーラカラーに塗るというのも流行った記憶があります。そのマジョーラが日本ペイントの製品だとか。

関東大震災直前 大正5~10年 1916年~1921年

○西から東に流れるのが目黒川です。今のイメージよりだいぶ小さいですよね。100年前までは小川みたいなものだったようです。


○大正時代、関東大震災前で第一京浜が現在地できています。

今回の地図の目玉は多分ここです。

現在の写真を振り返ると100年ちょっと前までは目の前がお寺の本堂があったなんて信じられませんね。

木々が生えているあたりがお寺なので、道路の真ん中にあたる場所に本堂があったのでしょう。そう思うとお寺の本堂がみえてくるような・・・


昭和初期戦前 昭和3~10年1928年~1935年


○ 南品川4丁目1451番地にあるゼームス邸は死後に三越に売却され、昭和3年 1928年に「三越品川少年寮」が完成したようです。働いていた若者の独身寮みたいなものかな。1945年に三越少年寮の建物を利用し、「三越品川軍服縫製工場」を開設。

○ その北に1448番地が高村光太郎の妻の智恵子の終焉の地であるゼームス坂病院のはずですが、病院マークがありません。
昭和のこの時代は地図が荒いとはいえあってもよさそうですが。
智恵子のことを光太郎知ってから亡くなるまで30年間の間に書かれた智恵子抄が有名です。病院跡には石碑が建てられているようです。

○ 関東大震災後に目黒川が直線的になったのも見どころです。
大正時代の細い目黒川とくらべていかがですか。
凄まじい帝都復興計画の威力。後藤新平のけん引力。

目黒川の流れを直線的にするために、もとの河川を廃して新しく河川をつくっています。旧目黒川は在原神社の北をぐるっとまわっていました。河川の流れをかえ、大きな道を通す帝都復興計画は東京のいたるところでみられますから、この当時の日本の国力は思った以上にあったのではないでしょうか。
戦争に突入できるだけの体力はあったということも言えると思います。

高度成長前夜 昭和30~35年 1950~1955年


○ このあたり戦災焼失地域には含まれていないようです。聾唖学校は空襲にあったようですがゼームス坂近辺は被害にあっていないようにみえました。西の大崎、ずっと南の蒲田は滅茶苦茶にやられていますし、戦後に利用できそうな邸宅もないので偶然というべきなのでしょうか。

○ 現在地の西に品川税務署がありますね。バブル期には西武堤のプリンスホテルの側に税務署が移転するのも昔調べたことがありました。目をつけられていたと解釈することもできます。


バブル期 昭和59年~平成2年 1984年~1990年

○ 旧ゼームス邸跡は1983年 昭和58年に三越ゼームス坂マンションになります。築40年超でワンルーム7畳ほどで10万円。
うーむ。高いと思いますが、明治初期からのこの土地由来の人物、ゼームスさん邸に建っている高級百貨店三越の名前を冠したマンションということで、特に付加価値は高いのでしょうね。

ここまでの土地の由来と企業名を前面に押し出すマンションを僕はみたことがありません。目白の徳川ビレッジがあるか・・いやあそこは一般人が住める雰囲気ではない(笑) 一方、三越ゼームス坂マンションは僕でも行けそうです。

○ このあたり、幹線道路と大きな線路と河川が区間を遮断しているので、歩行者自転車にとっては移動しにくい場所なんですよね…攻略するにはあと何回かの訪問が必要そうです。

○ 東側の旧東海道では、今では「しながわ宿場祭」として、八山から青物横丁までの旧東海道で花魁道中などが行われているそうです。

花魁道中って、現代のポリコレ的に見ると少し危うい部分もあるのではと思います。(僕が気にしすぎかもしれませんが、例えばYouTubeでは食べるために魚をさばくのはOKでも、小動物を解体するのは大きさにかかわらず禁止されています。あと何年かすれば、マグロの解体ショーなんかも規制される時代が来るのかもしれません。)

品川宿は吉原に次ぐ遊郭地帯だったそうで、花魁は華やかに描かれますが、実際には花魁になりたくてなる人はほとんどおらず、お金に困っていなければやらなかったはずです。とはいえ、これは江戸の風俗文化の再現だから、問題視されることもないのかもしれませんね。




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