【小説】「父を笑わせる」 その6(最終話)
北海道から帰ってきて、お土産のとうきびチョコを、どじょうすくいの先生に渡した日だった。どんど焼きの時にどじょうすくいをやるので、手伝ってくれないかと言われた。
正直、気が進まない。
「すみません。僕はまだ下手ですし」
「もちろん上手とも言えないけど、そこが良いと思うのよ。実は、フジワラさんも出てくださるの。どうかしら?」
「フジワラさん、僕はお会いしたことがなくて」
なるべく平坦に、感情がこもらないように気をつけて言う。
「そうよね。ちょっと待って写真あるから」
僕は掲載を断ったけど、教室のウェブサイトには生徒さんたちの写真コーナーがある。先生がスマホで写真のページを見せてくれる。一人だけ上から見下ろすような目線で映っているひとがいる。もみあげ部分がピンク色だ。
「このひとなの」
何か言おうとしたけれど、うまく声が出てこない。
「あの」
「どうしたの?」
「いえ」
「フジワラさんってね、実はすごく長い間どじょうすくいをやっていらしてね。今回もすごく出たがっているんだけど、眉毛もないし、頭もニワトリみたいだし、ほら、ちょっと怖い顔でしょう。あ、あたしは怖くないのよ。島根から出てきたくらいの頃から知ってるし、すごく感じが良い子なんだから。でも、モリさんがね。フジワラさんと二人で出るのはちょっと気が進まないみたいなの。ウツミさんやアサクラさんが出ないなら出ないって。でも、モリさんには出ていただきたくて」
「ウツミ、参加するんですか?」
どじょうすくいの先生は、首のうしろをすこしだけかくと「あら、知らなかったのね」と言った。
「ウツミさん、先月でやめたの」
久しぶりにウツミに連絡してユーカリに誘ってみたけど、「今日はハンバーグカレーだから無理」って返事が来た。「明日は?」ってきくと返事は「明日も明後日もハンバーグカレー」だった。
父も珍しく残業が続いていて、今日も僕は一人で夕飯だ。たしか、明日も明後日も。
二日連続でハンバーグカレーっていうのは、ありえるんだろうか。
ありえるかもしれない。
じゃあ、三日連続は?あるかもしれないけど、その確率は、ウツミがハンバーグカレーをどれくらい好きかに依存するだろう。ウツミはハンバーグカレーが好きなので、本当に三日連続ハンバーグカレーであって、僕の誘いを断る口実ではないということにおこう。
店長には北海道みやげに「鮭とばイチロー」を買っていった。
「なみ~の、たにまに~にいのちの~は~な~が~」
店長が急に歌いだす。
「なんですか、それ」
「鳥羽一郎、兄弟船」
「正直、歌は知らなくて」
「え、知らない?それにしても、お父さん、笑ったんだ。それはよかった」
店長は心底うれしそうに、にこにこしてる。
「その話してましたっけ?」
「いや、聞いたと思うよ」
店長はもみあげのあたりを人差し指でぽりぽりかいてる。
「なんか、でも、逆に笑いすぎというか。すぐに笑うようになっちゃって」
「いいと思うけど。明るくて」
「はあ」
とりあえず、自分でダジャレを言って、自分で爆笑していることについては話さないことにした。ダジャレを大事にする店長にとって、ダジャレを下に見るような発言は失礼だ。
ちなみに、父の十八番は「これがホントの〇〇」シリーズで、テレビを見ているときとか一緒に移動している時とかに思い浮かぶらしく、今日はいつも俳句が書いてあるパッケージのお茶のコマーシャルを見ている時にそのスイッチが入った。
「おしりをだした小林一茶が走っていった」
「え、なに?」
「これがホントの小走り(こばしり)」
経験してみるとわかると思うけど、本当に急にこういうのがあると、戸惑いしかない。父は僕の戸惑いは意に介さず、そういう駄洒落か謎かけかわからないものを思いついたタイミングで僕に開陳し、笑う。
「人口六〇〇〇人ほどの小さな町のカップルが楽しそうでした」
「え、また?」
「これがホントののいい仲(いいなか)」
内心では、連発だったなと思ったけれど、父の創造性に水をさすのもかわいそうなので、ただ「よく思いつくもんだね」と言っておいた。
もうすぐ母が亡くなって一年だ。
なるようになるもんだ。なるように、ってのはこの場合、ごく近場に駄洒落好きが二人も出現して、父が無駄に笑うようになって、たぶんハードモヒカンの男性のせいで好きな人と距離ができたってことだけど、しゃーない。
朝起きると、ウツミに会いたかった。
もしくは、朝っぱらからクレイマークレイマーを見たい気分だった。
朝早くに出て、おむつ公園で待ってみたけれど、ウツミには会えなかった。
こういう想いを凝縮してしまう行為の行きつく先には名前がついていて、ストーカー行為と呼ばれている。だもんで、あっさり、あきらめることにした。
会ったところで、男女間の川を渡れず、びしょぬれだ。
と、思ったところで、うしろから声をかけられた。
「お」
ウツミだった。
「アサクラ。久しぶり」とウツミ。
「うん、久しぶり」と僕。
「待ち伏せ?」
「そう。待ち伏せ」
ウツミはすこしだけ笑いをこらえているようで、口元をかたく結んだまま何も言わない。僕はさっきまで何かウツミに伝えようとしていたはずなのに言葉が思い浮かばなかった。
「ぜんぜん完璧じゃないかも」
そういって僕は見えないザルを頭にのせるしぐさをする。ザルもビクも持ってないけど、あるつもりで、どじょうすくいの歩き方をし始める。半円を描くようにして歩いたあと、直径の線をなぞるように、まっすぐに戻ってくる。
見えないザルを右肩の位置に立てたあと、ゆっくりと腰の位置におろす。
見えないザルを持ったままの中腰姿勢で、左から右にかけて笑顔をふりまく。
ちょうど、ウツミが立っていた位置で、どじょうをみつけて、どじょうの動きにあわせて、目線を奥から手前へ、また奥へじぐざぐに動かした。
「お、どじょうだ」って顔をしてから、見えないザルを左脇にそっと置く。
じっと、どじょうをみつめたまま、右足、左足、右手、左手をまくる。
見えないザルに手を。
「ちょっと待った」
ウツミが僕に声をかける。
「えーっと、ここでどじょうすくいの朝練??」
「朝練じゃなくて、ウツミへの特別な気持ちを表してみたんだけど」
「念のため聞くけど、どういう気持ち」
「ウツミが好きだ」
僕はなるべく眉毛をキリっとさせて言う。
「あのね、あたしもアサクラは好きなんだけど、なんだろう。この複雑な気持ち。わかってもらえるかわからないんだけどね。愛の表現が、どじょうすくいってところがイヤ。イヤというかありえない」
「だから、特別になるかなって。すこし面白いかなって」
「うん。わかった。よし、いくつか順を追って説明が必要だね。まず、その恰好は?」
僕はどじょうすくいの衣装を着て、頭には豆絞りの手拭い、鼻には古い穴の開いたお金をつけている。うん。ちゃんとしている。
「ん、どこがダメなのって顔しているね。まだわからないかい?」
「ちゃんとした恰好のほうがいいかなって」
「ちゃんとしすぎてる」
ウツミは目をぎゅっとつぶり、強くうなずいている。
「え?」
「たしかにちゃんとしているよ。ちゃんとしすぎている。というか、「ちゃんとする」のベクトルが違うよ。アサクラはあたしのことが好きで、付き合いたいのだよね?」
「付き合いたいというか、理由がほしくない」
「どういうこと?」
「一緒にいる理由や口実がなくても一緒にいたい」
「その表現が、どうしてどじょうすくいなの?」
「喜ぶかなって」
ウツミは笑いをかみころすように下唇をかんで、目をそらした。
「あのさ、朝って忙しいよね。家から、この公園は見えるからさ。ホントは気づかないふりして別の道に行こうかなと思ったんだけど、すごい深刻な顔して、どじょうすくいの格好してんだもの。やっぱ、気になって寄っちゃったよ」
「やっぱ、フジワラさんのことが」
「なんでフジワラさんが関係あんの?これ、あたしたちのことだよね」
「だって、フジワラさんのどじょうすくいをほめてたし」
ウツミが、ちゃんとした恰好の僕をつま先から頭のてっぺんまで見てから、僕の目を見つめる。
「また今度、ちゃんと言ってよ。普通の恰好で、ふざけないで言えばいいんだから」
ウツミが「あ、これ、良かったら参加しなよ」と折りたたまれた紙をくれる。
「ウツミ、あのさ」
僕の声には、振り返らずにすたすたと歩いて行ってしまった。
だいぶ前に、プロポーズは特別なのがいいって言ってたけど、やっぱり求婚と付き合ってって言うのは別なんだろうか。まぁでも、たしかに朝の忙しいときに、どじょうすくいを見てもらうというのは、ちょっと迷惑だったのかもしれない。
ウツミにもらった紙をひろげてみる。
どんど焼きのちらしだった。やぐらが燃えている写真の横に、伝統芸能、おしるこ、芋煮汁、地域のバンドによるスペシャルライブと書かれていた。
結局、どんど焼きのどじょうすくいの会には出ることにした。
僕がまだ下手なのは先生もわかってくれていて、けれど、沢山のひとに見てもらって、若い人もやっているよとアピールしたいと先生は仰っていて、僕自身も自分にできることなら手伝いたいと思ったのだ。
それに、なんだかわからないけれど、フジワラさんがどじょうすくいが上手でも、関係ない。僕は僕のどじょうすくいで、お正月休みも終わってつかれたひとたちをすこしでも笑わせられればいいのだ。
フジワラさんは関係ない。うん。関係ない。
「先生、あの、フジワラさんの使っているザルやビクは、購入したものですか?」
「そうじゃないかしら。何年も前だから覚えていないけど、おうちで練習したいと仰って、島根で作ったものを買っていたもの」
いつも教室でお借りしているのは、中国産のザルだけれど、頭にかぶせる部分のカーブが幅広く、僕がうまくないせいもあって、ずり落ちてしまう。たぶん、どっちのザルがいいとかじゃなくて、用途が合ってないんじゃないだろうか。
「すみません。僕も、そろそろ自分のザルやビクを購入したいのですが」
「あら、まだいいのに」
これはフジワラさんとは関係ない。年末年始のごちそうでお正月太りしたひとたちに、質の高いどじょうすくいで、すこしでも笑ってもらうためだ。
「あの、ぜひ。お願いしたいんです」
「そ、そんな真剣な顔しなくても」
「ぜひ、国産の、島根県産の竹ザルとビクでお願いします」
芸に道具は関係ないと思っていたけれど、フジワラさんには負けてられない。
どんど焼きに出ることが決まってから、僕はどじょうすくいのことだけを考えた。もちろん、仕事もあって、いつも通り変わらず忙しいお店で、お客様に喜んでもらえるように、同じシフトのひとたちの負担がすこしでも減るように頑張って働いたつもりだけれど、僕の頭の中は、どじょうすくいでいっぱいだった。
毎週、教室に通った。
毎日、家でどじょうすくいの歩き方を練習し、顔の訓練、どじょうに気づかれずにザルを置く訓練、どろがはねて顔に飛び散ったのをぬぐう仕草の訓練などをした。
年末年始は今年も父とふたりだったけれど、今年の父は普通だった。
僕が作った白みそのお雑煮を食べて、「うまいな」って言ったり、ボールで餅をついて二人で苺大福を作って食べたり、お笑い番組を見て笑ったりした。母がいないのに、慣れたというよりも、僕たち二人は、「今までいた誰か」がいないことを一年前の今ごろよりも、すこしだけ考えなくても良いようになってきていた。父はだじゃれで頭をいっぱいにさせていたせいかもしれないし、僕はどじょうすくいで頭がいっぱいだったからかもしれない。あるいは、この一年間で、誰かがいた記憶がうすれるほどには僕と父の脳細胞が勤勉に死んでまた生まれ変わっていたせいかもしれない。
で、思ったよりあっという間に、どんど焼きの日になった。
僕は、父とウツミをどんど焼きに誘っていた。
出番の時間近くに、現地で会おうと約束して、僕だけ先に現地に向かう。
今回はモリさんと僕とフジワラさんだけが出る。特に大がかりな準備は必要ないのだけれど、僕はフジワラさんと会うのが初めてだし、落ち着いて準備をしたいので、集合時間よりすこし早めに行くことにした。
会場では、もう地域のひとたちが、甘酒や芋煮汁、お汁粉の準備をしていた。
広場の真ん中に、やぐらが組まれていて、先に集まったひとたちのしめ縄や松飾、書初めやお守りがすでに置かれている。近くでは、お焚き上げするものを受付する場所などが設置されていた。
まだ、フジワラさんたちは来ていないんだろうか。
会場のすみっこに、赤い絨毯が敷かれた場所があって、そこには一人だけ男性がいるみたいだった。
「おはようございます」
僕を認めると、男性が大きな声であいさつをする。
「もしかして、アサクラさんですか。あの、私、フジワラと申します。今日は、ご一緒できると伺っていて、楽しみにしていました。お世話になります。よろしくお願いします」
フジワラさんは、写真で見たのと同じ、ピンク色の髪をサイドだけきつく刈り上げていた。前開きのジャンパーの下に、「地獄へようこそ」って意味の英語が書かれたTシャツを着ている。
正直、すごく感じがいい。
「あ、すみません。こんなTシャツで。僕、どじょうすくいバンドっていうのをやっていて、それがなんていうか、曲調がハードコアなんですけど、物販でTシャツが大量に余っちゃって、なので、ここは地獄じゃないんで安心してください」
「あの、すみません。ご挨拶が遅れました。アサクラと申します。今日は、僕もフジワラさんとどじょうすくいをするのを楽しみにしていました」
よくわからないけれど、なぜか思ってもいないのに僕は「楽しみにしていました」と言っていた。こういうのは何というか、別に興味がないのにたまたまテレビで見ていた野球でホームランを目撃してしまう喜びに似ているというか、さも待っていたかのように喜んでしまうというか。それにしても、どじょうすくいバンドってなんだろう。ハードコアな曲調で安来節をやるってことだろうか。たしかに地獄絵図のような気もするけれど、だから地獄ってことなのだろうか。
「あの、どじょうすくいバン…」
「あ、モリさんがお見えになりました」
モリさんは、フジワラさんがやはり怖いのか警戒しているようだった。
ただ、フジワラさんは僕の時と同じように、満面の笑みでモリさんにも「今日は、ご一緒できると伺っていて、楽しみにしていました」と言って、モリさんも僕と同じように「あの、私も楽しみにしていました」と言っていた。
あいさつを終えると、フジワラさんが僕とモリさんに「主催者の方からお水をいただきました」と言って、ペットボトルのお水をくれたあと、「つまらないものですが、ぜひ寝巻にでもしてください」と言って、「地獄へようこそ」Tシャツもくれた。
なんだか、全然ほしいと思っていなかったのに、うれしい。
モリさんも「わぁー、うれしいわ、パジャマにするわね」と言っていた。
「ぜひぜひ」
完全に、フジワラさんのペースだ。というか、
フジワラさんって、もしかしてすごくいいひとなのでは?少なくとも、人あたりはすごくやわらかい気がする。
「すこし早いのですが、僕はちょっと早めに準備したくて、着替えてしまいますね。もしよかったら、アサクラくんもどうかな。あ、モリさんにも控室というか、着替えの場所をついでにご案内しますね」
さっきまで、フジワラさんに警戒していたはずのモリさんは、Tシャツをもらってからはニコニコしている。僕もなんだか、フジワラさんに対抗しようとしていたのが、馬鹿らしいというか、なんでむきになって、島根産の竹ザルを買ってしまったのか、ちょっと後悔すらし始めていた。
案内してくださった更衣室で、フジワラさんと着替える。
フジワラさんは、運動の時にはくスポーツ用のスパッツみたいなものを履いていた。着替えをして、きっちりアイロンされた襟の向きのなどを細かく一つ一つ確認するように見て、すこし動いてからまた、帯などを確認する。
「アサクラさん、私、うれしいんです。安来節が大好きで、一生懸命にやっていたけれど、若い同姓のひとと一緒にやる機会はなかなかなくて、実は、今回も、アサクラさんと一緒に出られないかって先生にお願いしていたんです」
「え」
先生はそんなこと言ってなかったけど。
「いや、私、こんな見た目でしょう。あんまり警戒させちゃうかなと思って、そのことは伏せてもらっていたんだけど」
「はあ」
なんというか、好意はうれしいし、フジワラさんはすごく良いひとに見えるのだけれど、どうしてもやっぱりあのことが気になってしまう。
「すみません。初対面で、こんなこと伺うのはすごく失礼だと思うんですが、フジワラさんって、もしかして少し前に、ニュースに出ていませんでしたか?」
さっきまで、身体をほぐそうとしていたフジワラさんの背中の動きがぴたっと止まる。
「もし違ったらごめんなさい。でも、もしそうなら、ウツミのこと忘れてほしいんです」
「なんのことでしょうか?」
「ウツミとフジワラさんってその。なんというか」
フジワラさんがやわらかく微笑む。
「あの、これから一緒にやるのに、気まずいのは嫌なので、ちゃんとお話ししますね。まず、あのニュースなんですけど、あれ、実は、いくつかは本当のことなんです。妻が浮気をして、その交際相手に送ったのは確か。でも、脅しではありませんでした。妻の交際相手っていうのは、僕の友人で同じバンドのメンバーで、あれはある意味、広報用というか、地獄でお前を待っている「どじょうすくいバンド」のリョウだぜっていうイメージというか、じゃなければ、地獄でどじょうすくいを見てもらうためにお前を殺すぜっていうバンドイメージというか。なんか、変な話ですよね、これ。」
バンドイメージが地獄で待ち構えていて、ハードコア系の安来節にのせて、どじょうすくいを披露するってことなんだろうか。
「あいつ、ベースなんですけど、このTシャツとかも作っていて、広報担当で、あいつにお願いされたんです。今度は、こういうナイフをなめなめして、地獄で待ってるイメージでポスター作るから、自撮り写真を送ってよって。そしたら、俺、あいつに裏切られて、なんか一生懸命あの写真撮るの頑張ったのに、妻にもなんか捨てられるし、このこと信じてもらえなくて、すげぇつらくて。でもベースのやつみたいに副業もあるわけじゃないから、収入も少ないし、戻ってきてなんて言えないし」
フジワラさんは目に涙を浮かべていた。
「だから、ウツミさんには会ったことあるけど、教室で何回かどじょうすくいを見せただけだし、全然何の関係もないというか。むしろ、俺、妻が好きで」
フジワラさんは手の甲で涙をぬぐっていた。僕は、タオルハンカチを差し出す。
「ありがとうございます。なんかすみません。でも、とにかく、ウツミさんは私と関係ないですよ。だから、大丈夫。とりあえず、今日、モリさんと三人でがんばりましょう」
「そうですね。がんばりましょう」
「そろそろ、モリさん、着替えたかな。先生が、今日はモリさんが音源を持ってきてくださるって仰っていたので、小さい音量で流してちょっとウォーミングアップがてら三人で動きを確認してみましょうか」
完全に取り越し苦労というか、むしろ思い込みのせいで、本番前にフジワラさんを泣かせてしまった。僕は、罪悪感から率先してモリさんを探しだし、音源のことを聞くことにした。けれど、そこで、問題が起こった。モリさんのカバンに音源のCDが入っていなかったのだ。
「ちょっと落ち着いて探せば、きっと見つかりますよ」
モリさんのカバンはポケットがたくさんあるリュックサックと、ザルの入る大きなきんちゃく袋だったけれど、どちらにも入っていないようだった。
モリさんもフジワラさんも、鼻に古銭をつけたまま、明らかに落ち込んでいる。
「フジワラさん、もしかしたらスマホとかでYoutubeの音を流せばいいんじゃないですかね」
フジワラさんは「そうか、その手が」と言った後で「いや、だめですね」と言った。
「ケーブルが必要です」
「主催の方に相談してみましょう。フジワラさん、音源探してみてください。モリさん、もうすこしカバンを見てみましょう」
モリさんとフジワラさんを残して、僕はまっすぐ主催者の方に相談に行った。
けれど、電話から音を出力するためのケーブルは持っていないみたいだった。僕らの出番まではあと一五分ない。どうしよう。コンビニ。そうだ、コンビニに行こう。
フジワラさんにケーブルがなかったことを伝えて、コンビニに向かう。
でも、近くのチョットストップにはなかった。
もう一軒、別のコンビニに行こうかと思ったけれど、ちょっと離れていた。
もう時間だ。さすがにフジワラさんやモリさんに報告に行かないとまずい。
会場に戻ると、もう大道芸のひとたちが芸の披露を始めていた。獅子舞や、南京玉すだれ、お酒に酔ったふりをして踊るダンスみたいなもの、マジックショーが予定されているけれど、僕たちの前にやるお酒に酔ったふりをして踊るダンスみたいなものがもう始まっていて、酔ったふりをするおじさんも千鳥足で、空になったひょうたんをのぞいて、目薬のように酒が目に入る仕草を一生懸命に演じていた。
フジワラさんたちに「すみません。ケーブル、売り切れてるみたいでした」と伝える。
モリさんが「CDもやっぱりないみたい」と言って、眉を八の字にしていた。
「正直に、音源がないことをお伝えして、今回はあきらめるしかないのかな」
フジワラさんが言った。
「そうですね。無音じゃできないですもんね」
赤い絨毯が敷かれたスペースに戻ると、父やウツミがいて、ウツミが僕に手を振った。残念だけど、あきらめるしかない。そう思って、フジワラさんのほうを見ると、フジワラさんが涙を流していた。
「あ」
「どうしたんですか」
「妻が観に来てくれているんだ」
「え?」
どこにいるかはわからないけれど、フジワラさんはさりげなく、顔を向けた先に、女性がいて、フジワラさんのほうを見ていた。
「妻は、私がどじょうすくいをするときに、見に来たことなんか一度もないんです」
モリさんが「すみません。そんな大事な場面で、あたしがCDを忘れたばっかりに」
「いえ、誰かのせいとかじゃないですよ。仕方ないですし」
「フジワラさん、モリさん、もう音が小さくても良いんじゃないでしょうか。スマホのスピーカーで音を流しましょう。無音でも、面白ければ、きっと笑ってくださいますよ」
モリさんが「そうよ。せっかくご家族が観に来てくださっているんだし、やってみましょうよ。失敗したら、失敗したでいいじゃない。きっと笑い話になるし、そうすれば、笑ってもらえるわよ」
モリさんはさっきまでと打って変わってやる気まんまんみたいだった。フジワラさんは、奥さんの前でやるのに気後れしているのか。「うん」と言わない。
「フジワラさん、やってみましょうよ。僕もなんとも言えないけれど、みせられる機会があるなんて、すごいことですよ。見ようと思っても見れないひとだっているんです。観に来てくださったってことは、少なくとも、観ようと思ってきてくださっているんだから、だから、やりましょうよ。ほら」
僕はとにかく主催者の方に音源がないことを説明して、スマホのスピーカーでやることにした。フジワラさんはまだ気が進まないようだったけれど、一緒に赤いカーペットのそばまで来てもらう。主催者の方が、「お待たせしました。次は、どじょうすくいです。ちょっと機材のトラブルがありまして、もしかしたら音が小さくなってしまうかもしれないのですが、ぜひみなさん、伝統的な安来節の踊りをお楽しみください」と言ってくれる。
僕は主催者の方に目で合図をして、音を流してもらう。
主催者の方は、気をきかせて、マイクをスマホのスピーカーに近づけてくれた。音が流れる。やっぱりすこし音は小さい。モリさんやフジワラさん、僕は、三人並んでどじょうすくいの歩き方で、ぐるっと一回りする。見てくださっているお客さんに、笑顔を向ける。父やウツミと目が合う。僕は笑う。どじょうをみつけたくだりで、音が途切れた。
「あれ、おかしいな」
お客さんの集中力が一気に途切れたのがわかった。
みんな、僕たちではなく、スピーカーのほうに気をとられている。
主催者の方が、マイクの電源を入れたり落としたりしている。
父とウツミの姿を探したけど、いなかった。
追い打ちをかけるように、別のステージのほうからベース音が鳴り始めた。
これは、あれだ。
「ライク・ア・バージンだ」フジワラさんが僕の横でぼそっとつぶやく。
延々と同じ部分を繰り返し演奏している。
「おいおい、なんだよ。俺たちの時間まだ終わってないだろうが」
鼻に赤い玉をつけたピエロのおじさんが怒った声で言う。お客さんがビクッとする。
もうだめだ。そう思った時だった。
人だかりの外から、ギターを持ったおじさんが現れる。
父だ。
父が、前に出てきて、歌を歌い始めた。
「ライクアバージン!ちゃんちゃらちゃらちゃっちゃー。ライクアバーーーージン。ちゃんちゃちゃんちゃちゃんちゃちゃちゃちゃちゃ。」
おいおい。父よ。どうした。父は同じ部分をずっとリフレインしている。
父はカッティングギターを時折まぜながら、アカペラで歌っている。同じ個所を何度も英語の歌詞のわかんないところは、「ちゃ」と「ら」と「ん」だけで。
急にどやどやと笑い声が消えてくる。戸惑う僕ら3人の前に、もう一人、知らないおじさんが入ってきた。ボイスパーカッションで、どこからか聞こえるベースと、父の声とギターに合わせて、途中、原曲にはないスクラッチ音までまぜている。
見覚えのある顔だ。もしかして、ミラノ風ドリア3杯のお客様、ボイパの君ではないか。
彼は、僕にウィンクする。
彼のうしろをついてきたのは、店長だった。
首からさげるストラップのついたキーボードでシンセパートを弾きながら、口パクでなんか言ってる。
わかんない。
「や・れ?」
僕は父が歌うライク・ア・バージンに合わせて動き出す。僕につられて、モリさんもフジワラさんも国産の、島根県産の竹ザルを動かす。何度も練習をしていたせいか、僕らのタイミングはばっちり合っている。安来節じゃないけど、もうこれはこれでいいのかもしれない。みんなが笑う。泥はねの瞬間に、父がマドンナのように「フー!」って大きく叫ぶ。
こんなに生き生きしている父を見るのは、本当に久しぶりだった。僕は、どじょうすくいを踊りながら、泣きそうになっていた。というか、もう涙が出ていて、袖でぬぐいながら、なんとか最後までやりきった。
拍手が起こって、分かれた人波のなかから、コントラバスを持ったウツミが出てくる。
「泣いてるじゃん」
ウツミが僕の肩をこづく。
「花粉症だよ」
「まだ、あるよ。このあと、茶碗とおわんの歌。アサクラの好きなやつ」
僕らがはけたあと、さっき怒っていたピエロのひとを中心に芸を披露したみんなが出てきて、横並びになった。獅子舞のおじさんや、南京玉すだれのおじさんや、酔っ払い踊りのおじさんも、お椀と茶碗を手に持っている。僕も父もウツミもマイ茶碗とお椀を手にしていた。
「毎年恒例のお椀と茶碗の歌でしめたいと思います。私たちがお椀だせーと言ったら、右手を前にだしてください。茶碗だせーと言ったら左手を前に出します。ぜひご一緒にお願いします」
僕は、ウツミの横に並んだ。
「よくわかんないけど、ありがとう」
「どういたしまして」
フジワラさんは手を振っている。女性と子どもが手を振り返す。「聖者の行進」のメロディで、ピエロ姿のひとが歌い出す。
店長は、ミラノ風ドリアのお客さまと父と一緒に照れながら、お椀と茶碗を前へ交互に差し出していた。初めは小さかった声がだんだん重なりあって大きくなる。
僕は「おわんだせー」って言いながら、もう一度、ウツミに微笑みかける。
半笑いのウツミの奥で、父が「ちゃわんだせー」って歌う。
たぶん、僕は笑っていた。
父が僕をみて、笑った。
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