誰かに気づかないうちに祝福されてるみたいに

 今日はお誕生日で、二日酔いだった。
 頭が、右の目の奥のもっと奥のところがガンガンする。頭痛に、お誕生日とか関係ないよね。

 朝ごはんを食べながら、子どもがつけた『葬送のフリーレン』を観る。
 奇跡的に、お誕生日の話だった。
 たしかに誰かの祝福に気づかないことはある。
 雪景色も静かで、二日酔いの誕生日に観るにはぴったりのお話だった。

 買い物を終えて、家で子どもたちにしらすチャーハンを作る。
 うまくできた。しかし親子ともども腹がいっぱいであった。今度は『呪術廻戦』を初めて観た。おもしろいのね、あれ。

 食い過ぎて、畳の上で寝転がりながら、長女の絵を描いてたら寝ていた。
 四時に起きると、妻がいて、「チョコモナカジャンボ」を二つくれた。

「お誕生日おめでとう」

 仕事から帰ってきて、へとへとみたいだった。
 ありがとうって思う。ありがとうって言う。

 夜は海老ピラフと南瓜スープとマカロニサラダにした。もはや栄養バランスとか完全無視の献立だけど、海老ピラフが、もう、びっくりするくらいうまくできた。ここ10年で1番かもしれない。海老の、火の通り具合がいい。

 しかし、腹いっぱいであった。
 頭がいたいし。
 長女の絵も満足できるものが描けた。

 今年1番の気づきは、自分が満足できるものが作れるなら、自分が「いいね」って思えるものを作ったり出会えたりするなら、それで十分だってことだ。

 もちろん、誰かからの「いいね」はうれしいけど、たぶん、自分が満足する基準はそこには置かないほうが健全でいられる気がする。

 それにしても、チョコモナカジャンボって美味しい。

 今日はヤフーニュースで、本当に悲しいニュースを読んでしまった。ああいうニュースが嫌いだ。情緒的に訴えかけていると分かっているのに、まんまとその報道が喚起しようとしていた感情が湧き上がってくることに気づく。悲しみとか無力感、自分とは切り離された遠景を見て、自分の安全な居場所に安堵する気持ち。ぜんぶ想定外の感情じゃないけど、そういうフィルターでしか見れない自分に残念な気持ちになる。

 中東のどこかの国とか、ウクライナとロシアとか
戦争のために動かす手を一旦とめて、チョコモナカジャンボの工場を作ればいいのに、と思う。

 半分に分け合って、食べてほしい。
 三分の一でもいい。四分の1はしにくいけど。

 ただ、そう思うことも、暇で無知なせいかもしれない。もし自分の子どもが傷つけられたら、のんきにチョコモナカジャンボなんて食べてていいんだろうかって思う気がする。何なら、自分がうまいものを食べること自体に罪悪感があるかもしれない。

 でも、たとえ、家族だとしても、遠く見えない場所で傷つくひとだとしても、そういう罪悪感って、本当に必要で機能的なものなんだろうか。
 もし罪悪感が導いた先に、新しい罪悪感を植えつける行為やループがあるなら、そこから遠ざかった場所で、無害に笑えることはやっぱり無意味だと思えない。結局、関係があると思い込むのもないと思い込むのもなんか違う気がする。

 なんの話だっけ。あぁ、チョコモナカジャンボの偉大さだ。

 チョコモナカジャンボっておいしい。
 誰かに気づかないうちに祝福されてるみたいに。
 甘くて、最中がサクサクしていて、ブロック上になっているから、誰かと分け合うのにいいと思う。
 もし誰もいなければ、次の日の自分でもいいと思う。

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