【小説】「父を笑わせる」その3
次の日の朝も、おむつ公園でウツミを待つことにした。
提案したいことがあるのだ。
ウツミは、僕を見つけるとだるそうに手を振り、公園を通り過ぎようとした。
「おはよう、ウツミ」
あわてて追いかける。
「おはよう、アサクラ」
「あれから、ちょっと考えてみたんだ」
「何を?」
「やっぱ『自然に任せる』っていうのはよくないんじゃないかな」
ウツミは鼻でため息をついて、眉を寄せた。
「何がだい、アサクラくん」
「昨日のウツミの話だよ。そのまんま鼻毛で例えると、もし自然に任せるとさ、そのひとはその日一日、鼻毛が出ているのに気づかなかったひととして、過ごすことになるんだ」
ウツミの歩く速度があがる。
「ごめん、今日、あたし急いでて。鼻毛の話をする余裕は明日以降もないかも」
「忘れてた。これ、心ばかりの品ですが」
厚みのあるすこし大きめの封筒を差し出す。ウツミは、歩みをとめて僕を見た。
封筒を受けとり、中身を確認する。
「どら焼きか」
「はい。すずめやのどら焼きです」
「アサクラ、認めよう。きみにはやさしいところがあるよ。朝ごはんを食べる時間のなかったあんこ好きの幼なじみにどら焼きを渡すなんて。きみはいいところがある。特別に駅までなら話を聞こう」
「はい、ありがとうございます」
なぜ上から目線なのかわからないけれど、反射的にぺこぺこしてしまった。
「でもさ、アサクラは、鼻からすこし毛が出ていますよって言える?」
「それがね。もっといい方法があるんだ」
僕は昨日よく考えたのだ。
「ほうほう。では、聞かせてもらおう」
ウツミは目を細めて僕を見ている。うん、なんか怖い。
「エピソードを話すんだ。この前、鼻毛が出ている友達がいてさ、ああいうときって、どう指摘したらいいと思う?って」
「あー、うん」
「あー、うん?」
ウツミは時計を見たあと、目を閉じて深く息をついた。
「あたしはそっちじゃないな」
「へ?」
「どうやっても自然な流れで話すのがめんどくさそうだし、遠回しに言って気づかないかもしれないし、いや。別に、アサクラなら嫌われてもいいから、教えてあげたい。なんか職場で「アサパン、今日は鼻毛が出ているな」って思われるのはいや。でも、問題はそこじゃないのでは?」
「職場で「アサパン」って呼ばれてないよ」
「そうだったっけ」
「じゃあ、ウツミが「鼻毛が出てるよ」って言われたら?」
「誰に?」
「たとえば、僕に」
「それはやだ。何かさ、遠回しのエピソードでさ。この前、電車ですごくきれいなひとを見かけたけど、鼻からちょろっと毛が出ていたんだ、美人でもそういうことあるよね、とかなんとか言ってほしい」
それはさっき僕がいったアイデアだ。
「ウツミってすごいね。逆にうらやましいよ」
「いやいや。それほどでもないよ」
ウツミはなんでこんなに自分勝手でいられるんだろう。すこし尊敬してしまうくらいだ。
まじまじと見てると、「よせやい、照れるやい」と頭をぽりぽりとかいていた。
「そうじゃなくて。あたしは、問題は周りの表現じゃない気がするよ」
「何が?」
「そうしていることがそのひとにとって必要なこともある」
「鼻から毛がちょっとはみ出てても?」
「はみ出てても」
「あのさ、うちの父さんが笑ってないことなんだけど」
「アサクラはどうしたいの?」
僕は、どうしたいんだろう。
「たぶん、父さんに笑ってほしいとかじゃなくて、面白いときに、一緒に笑ってくれないのが、なんかさみしいのかもしれない」
なるべく軽い調子になるように、声にしたつもりなのに、思ったより暗くマジメな響きになってしまった。
ただ、なぜかウツミは目を輝かせていた。
「アサクラのそういう素直なとこは好きだよ」
「何、言ってんの」
急なことで、声がふるえそうになる。わかってる、友人としてって意味だ。
「何か、あたしも考えてみるね」
ウツミは「どら焼き、ありがとう」と小さく手をふり、僕らは「人生」の前の交差点まで行ったところで別れた。なんとなくぼーっとして、人の流れに沿って、駅に向かうウツミの背中を見ていたけど、気持ちを切り替えて僕も職場に向かうことにした。
「新メニューです」
お店に着くと、店長が新しく開発したというドリアを見せてくれた。
「うまい?」
めちゃくちゃうまいけど、これどこかで食べたことがある気が。
「なんだか、ものすごい既視感が」
「何が?」
「念のため、メニュー名も聞いてみていいですか?」
「ミラノ風ドリア」
「店長ってクチナシヤのデリー風ドリア、食べたことあります?」
「あるよ」
「これ、パクリですよね?」
「パクリじゃなくてオマージュ。味わってごらん。うちのはカレー粉が入ってないんだ」
ひと味足りない気もするんだけど、それがいい気がする。チーズとミートソースのバランスもいい。
早速、その日から新メニューとして登場した「ミラノ風ドリア」は、一人のお客さまがすごい気に入ったようで、うなづきながら三杯も食べていた。
お客さまは、お会計の時に「ありがとう。うまかったよ」と言って笑顔を見せてくれた。
低音の、よく空気を含んだ、聴き心地の良い声だった。
口もとの矯正器具が見えるくらいくっきり笑った顔で、眩しかった。
「さっきのお客さま、なんか素敵ですね」
「あれ、初めてだっけ、ボイパの君」
店長はうなずきながら料理を食べる仕草を真似していた。
「近くの公園で、よくボイスパーカッションの練習をしてんの」
「それで、ボイパの君」
「あたし、気づいたの」
「何がですか?」
「公園で練習してたの、たぶん、マドンナのライク・ア・バージンだと思う」
「ボイパだけでわかるんですか?」
「あたし、イントロクイズ得意だから」
店長はライク・ア・バージンのイントロのベース音を口ずさみながら、「ミラノ風ドリア」を作っていた。ボイパの君は、その日から僕のお気に入りのお客さまになった。
新メニュー登場の翌日の昼、早速ウツミから連絡があった。「ユーカリ」で会おうという。
夜はオムライスにするつもりだったが、お店でなにか食べるかもしれない。父に連絡し、別々の夕食にすることにした。
職場を出て店に着くと、ひとはまだそんなに入っていないようだった。
「ユーカリ」は小さな長方形の箱みたいなお店だ。
奥のキッチンまで続く左側の壁面には、絵本やマンガや小説がたくさん並んでいる。メニューは多くないけれど、サンドイッチとかトーストとかタコスとかナポリタンとか、素朴でおいしいものが多いし、色んな国のビールもある。ウツミは、何か飲みながら『キャンディ♡キャンディ』を読んでいた。たぶん、冷たいほうの、黒みつカフェオレかミルクだろう。いつもそうだから。
「おう、来たか、アサクラ」
「おう」
ウツミは、今日はきれいな辛子色のカーディガンにダボっとしたジーンズだった。Tシャツには、楳図かずおの絵が描かれていて、青褪めた女の子が目を見開いて叫んでいた。
「何、頼む?」
「どうしよっかな」
なぜかどきどきする。
たぶん、落ち着かない絵柄のTシャツのせいだろう。何を恐れているのかわからないけど、女の子の顔が怖い。「ギャー」のレタリングも怖い。なるべく変に意識しないように気をつけることにしたけれど、あまり目を合わさないのも変だし、じっと見るのも変だから、ついつい視線が泳いでしまう。
店主が置いてくれたお水を一口もらう。落ち着いて、とりあえず、クラフトコーラと「ユーカリのスペシャルサンドイッチ」を頼むことにした。
ここのクラフトコーラは、スパイスやレモンを配合して作られているのだけど、コーラ駅への道すがら、ジンジャエール駅におろされたような味がしておいしい。目的地はここじゃなかったはずだけど、まぁいいかと思えるバランスのとり方が絶妙なのだ。近所の南インドカレーを出すお店のひとから教えてもらったレシピらしいけど、そこのインドカレー屋はなくなって、もうここでしか飲めない。
「これにしようかな。ウツミも、何か食べる?」
「いや、今日、うちはハンバーグカレーらしくてさ。ほんとはアサクラと食べようと思ったんだけど、ハンバーグカレーはちょっと無視できないかなと」
「それは無視できないね」
ウツミはハンバーグ大好きっこだけど、たぶん、手間のことを言っているんだろう。
母の代わりに、毎日のように料理をするようになってわかったけど、手間のかかる料理とそうではない料理があって、手間のかかる料理を作ったときに父が帰ってこなかった時、別にいいんだけどって思いながら、別にいいんだけどって気持ちをはみ出る何かがある。恨みとも怒りとも落胆とも言い切れない何かが、腑に落ちないまま見えないまま「いいや」って思えない場所にちんまり座ってる感じがする。
「誘っておいてすまない」
「いや、別にいいよ」
「というわけで、単刀直入に言おう。アサクラくん、君はどじょうすくいをやるべきだ」
どじょうすくいって、あの、短い割りばしを鼻の穴にさして踊るやつだろうか。
「去年だったかな、ふるさと広場で「どんど焼き」をやっていたの。今年もやってたんだけど、お汁粉と甘酒と芋汁がふるまわれててさ。去年は、そこであたし、アサクラ父とアサクラ母を見かけたの」
ふるさと広場の「どんど焼き」は毎年やっている。
毎年、父と母に誘われていたけど、ここ最近は父と母だけで、僕は行ってない。
なんとなく寒い中、外に出るのが億劫で、何なら古いお守りやおみくじなんかも父と母に任せてしまっていた。今年は、母が亡くなった直後だったのもあって、父も行ってなかったはずだ。
「今年もやっていたんだけど、毎年、地域の芸を持っているおじいさんたちがさ、広場の横っちょで披露していて、マジックとか、南京玉すだれとか、お椀と茶碗の歌とか」
ん?
「ちょっと待って。なに、その「お椀と茶碗の歌」って」
「おわんだせー、ちゃわんだせーってやつ」
ウツミは「聖者の行進」のメロディに合わせて、胸元に持った見えない何かを両手に、交互に前にくり出す動作をしていた。お椀の時は右手を前に、茶碗のときは左手を前に突き出すらしい。
「もう一回やってもらっていいですか?」
「おわんだせー、ちゃわんだせー」
さすがのウツミも二回目は気が進まないようだったけど、しぶしぶやってくれた。
「芸を披露した後におじさんらが並んで、お椀と茶碗を交互にだして歌うの。それはどうでもいいんだけど。去年、アサクラのお母さんとお父さんをさ、そこで見かけたんだよ」
「お椀と茶碗の歌のとこで?」
「そう、お椀と茶碗の歌のとこで。それは最後にやるやつだけど」
「それは最後にやるやつなのね」
「うん。お椀と茶碗はいったん忘れてくれる?」
「うん」
「あたし、思い出したんだ。去年、あそこでどじょうすくいをさ。九〇歳くらいのおじいさんがやっていたときにね。アサクラ父がめちゃくちゃ笑顔だったんだよ。アサクラ母とさ、なんかすごい楽しそうに」
「もしかして、父はどじょうすくいが好きってこと?」
「可能性はあるよ。すごく笑っていたし。他の芸では笑ってなかったし」
めちゃくちゃ笑っている父を思い浮かべてみようと思ったけれど、うまくいかなかった。母が死ぬ前も、父が爆笑する姿は見たことなかったんじゃなかろうか。
「それは珍しいかも」
「だから、アサクラは、どじょうすくいをマスターすべきだよ」
ウツミには冗談を言っているようには見えない真剣さがあった。どじょうすくいについて、というより世界平和とか地球温暖化とか少子高齢化とか、そういうことについて話していてもおかしくないくらい真剣な顔だ。
「うん、やってみるか」僕も真剣な顔で応える。
「うん、やってみよう」ウツミも真剣な顔で応える。
「というわけで、何曜日がいい?」
「何が?」
「どじょうすくい教室、西武線の所沢かどっかそっちのほうでやってんの」
所沢は埼玉だ。直通電車で一本だけど、遠い。
「わかった。調べてくれてありがとう。曜日決めて、体験教室とかに行ってみるわ」
「あたしも行くよ」
「え?」
「一緒にやろう。どじょうすくい。ふたりでやるほうが一人よりたぶん楽しいよ。おじさんに見せるならさ、一人より二人のほうが迫力あると思う」
どじょうすくいにおける、人数とその迫力の比例関係はわからないけど、ウツミは本当にやる気っぽかった。たしかに、一人より二人のほうが見栄えがする気はする。
「本気?」
「本気。じゃあ、曜日についてはあとで教えてよ」
「いや、あのさ」
自分の分の伝票を持って、お店を出ようとするウツミを呼び止める。
「ありがとう。でもさ、僕がやるよ。教室の予約。調べてくれただけでうれしいし、父さんを笑わせたいのは僕だし」
「なんかアサクラ、無駄に目がきらきらしてんだけど、今、何の話してるんだっけ」
「どじょうすくい」
僕はさらに目をキリッと開き、口元をきゅっとしめて、手をグーにして見せた。
どじょうすくいへの、断固たる決意ってやつだ。よくわからんが、宴会芸かなんかだし、楽しいに違いない。
ウツミは「あ、うん。まぁ、興味あるし、あたしの分も相談しといてよ」と軽いグーで応えてハンバーグカレーの待つ家に帰って行った。
僕は一人残されたあと、クラフトコーラを飲みほし、サンドイッチは持って帰って、父と食べることにした。
父はどじょうすくいが好きなんだろうか。そうだとして、僕がやる必要があるのか。映像とかでもいいかもしれないと思ってから、その考えを打ち消した。ナマがいい。
でも僕にできるんだろうか。
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