【小説】父を笑わせる その1
母が亡くなった。
案の定、父は泣き暮らしている。
なんなら泣くために、泣ける映画ばかり見ているんじゃないかって思う。
父が見る映画ではたいてい人が死に、病いに苦しみ、離別に戸惑う人たちが出てくる。父のえらいところは、そういう一大事のあとにも、仕事には行っているってことだ。
ちなみに今日は、早起きした父が朝っぱらから『クレイマークレイマー』を見ていた。一人で観せてあげたい気がして、僕は部屋に戻る。
エンドロールが流れる頃合いでまた、リビングに戻ればいい。
そう思って、机に向かってていると、しばらくして、バターの美味しい匂いがし始めた。
涎が出る。
これは、あれだ。
そう思って、リビングに戻ると、目のふちがほんのり赤い父が、やはり台所でフレンチトーストを焼いていた。
僕はテキトーな量のインスタントのコーヒーをテキトーな量のお湯で解いた飲み物をつくり、父の席に置いたあと、醤油皿に取り分けられた分を、母の仏壇の前に置いた。
手を合わせて、「たぶん、うまいよ」って言う。
エプロン姿の父も一緒に手を合わせて、「絶対うまいよ」って言う。
テーブルには綺麗に焼き目のついたフレンチトーストが二人分のせられていた。
二人で手を合わせて「いただきます」をする。
フレンチトーストを食べる。
父は、コーヒーを飲む。
「うまいな」僕;と父の声が揃う。
六時だった。テレビをつけると、モヒカン男のニュースが流れていた。
男のそれは『北斗の拳』かなんかで、敵がナイフを持って出てくるとやるやつだった。
名前をつけるとしたら「ナイフ舐め」か「ナイフなめなめ」だろうか。
たしかに悪そうに見えるし、実際にいたらものすごく怖いのだけど、マンガやアニメの中に限って言えば、この手の登場人物は、軽い傷を負わせた主人公や、突然かけつけた仲間によって、すぐにやられてしまう。
ニュースの男も、恋人の浮気相手を威嚇すべく、思いついた中で一番悪そうなポーズをし、スマホで自撮りした写真を、浮気相手に送りつけたらしいのだけど、当の浮気相手は送られてきた「ぶっ殺す」というメッセージのスクショと一緒に、その画像をSNSに投稿し、自分を脅迫した罪で、警察に訴えたらしい。
浮気されたハードモヒカン男の氏名横には「(無職)」と書かれていた。
僕は、お気の毒にと思う気持ちと、ひとの恋路を笑ってはいけないと思う気持ちの間で揺れ動きつつ笑いそうになり、ふと、横で見ていた父も笑うのではないかと期待したけれど、父は笑わずに「痛そうだな」と短く言っただけだった。
たしかに、
ナイフをなめると痛いので、
何も笑うようなところはないのかもしれない。
と思い直すくらいに、父の反応はフツーなものだった。
笑いかけていた口もとを引き締める。
でもって、僕は一つのある重要な気づきを得ていた。
最近、父は、笑っていないのではないだろうか。
いや、最近っていうか、なんなら母が亡くなってから三か月半、一度も笑ってない気がする。真剣な気持ちで脳みそに問いかけて、片っ端から記憶の断片を漁ってみたが、最後に笑ったのがいつかは思い出せなかった。
「父さんってさ、もしかして職場でもそんな感じ?」
「何が?」
「いや、やっぱいい」
「お前、なんか良いことでもあったのか」
「何が?」
「いや、なんかニコニコしているから」
「気のせいじゃないかな」
急いで家を出ることにした。
この時間ならウツミにも会えるかもしれない。
職場へ向かう道をそれて、おむつ公園に行く。
おむつ公園の、座るところがおむつのカタチをしたブランコのそばで、
陽をあびた春の土の匂いにまじって、なぜか果物のような香りがする。
「苺?」
甘酸っぱい匂いに、涎がでそうになる。
周りを見渡したけれど、誰もいない。
気のせいか。
ポケットからスマホをとりだす。
試みに、「面白い」で画像を検索すると、シベリアかどこかの雪国で外に放置されたんじゃないかって思うくらい顔に霜がついて寒そうにしている力士の写真や、『サザエさん』の磯野カツオくんの顔の輪郭に、細野晴臣の顔がコラージュされたイラストなどが表示された。
これらの画像を見て、父が笑うとは思えない。
というか僕でさえ笑っていない。
「本気で考えないと」
「何を?」
声がして、横を向くと、ウツミがいた。
ウツミは無表情のまま、左手に持った小さなタッパに、右手の赤いものをちょんとつけて、手早く口に放り込んでもぐもぐしている。落ち着いて、ゆっくり食べさせてあげたい気がしたので、食べ終えるのを確認してから、僕はあいさつをした。
「いつからそこにいたの?」
「アサクラが真剣な顔でスマホ見てるときから。で、何みてたの?」
「力士の画像を」
ウツミはおでこに指先を置いて目をつぶっていたけれど、しばらくして、
「うん、いいと思う」と言った。
「なにが?」
「本気で力士のこと考えるんでしょ?」
本気で力士のことを考えるってどういうことだろう。ウツミは、練乳だけになった容器のふたをすると、透明のビニール袋に入れてカバンにしまった。
「父親なんだけど」
「うん」
「最近、笑ってない」
ウツミは僕の顔をじっと見てる。
「顔、近い」
「アサクラにとっては笑顔もさ、鼻毛みたいなものってことかな?」
「どういうこと?」
「笑顔も鼻毛も自然に任せるにはちょっと、存在に意味がありすぎる」
「どういうこと??」
「おじさんのこと、また話そう」
ウツミが見えなくなったのを確認して僕は、自然に任せられぬ鼻の穴をなるべく自然に隠しつつ、モジモジしながら、駅に向かった。まっすぐにトイレに直行し、社会人の端くれとして一応チェックしてみたのだが、僕の鼻の穴からは、右からも左からも毛など出ていなかった。
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