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よ〜し、人生の伏線を回収するゾ〜

Netflix映画『ちひろさん』を観ました。

登場人物みんなの人生がこの映画の前にもあって、この映画の後にも続く感じがするというか、そういう作りかたをしているところがとてもいいな〜と思いました。
これは、人物の背景や過去を極力描かない。説明もしない。エピソードをきれいにまとめない。これからどうなりそうかも極力匂わせない。そういう演出によるものだと思います。
なぜそういう演出をしているかというと、僕らが経験している日常は、そうやってできているからです。僕らには過去も未来もなく「今、この瞬間」しかないからです。今、目の前で起きていることを見るしかなく、エピソードはきれいにまとまらないからです。(断言)

映画の観客というのはしばしば神の視点を持たされることがあります。登場人物が過去にどんな悪いことをしていたのか。どんなことを企んでいるのか……ということをなぜか観客は知っていたりします。でも、実際はそんなことはないわけです。目の前の人が、今、この瞬間に何をしているのか、何を言っているのかしかない。この映画で今泉監督は、それをやろうとしていると僕は思いました。

ドラマづくりにおけるルールというか、お約束ごとのようなものが世の中にはあって、例えば「チェーホフの銃」というルールがあります。「物語の早めに銃が出てきたら、後半で必ず発射されなくてはならない」というやつです。現代的には、ストーリーにあんま関係ないもんを出さないほうがいいよっていう感じで解釈されてると思います。古きよきミステリーとかサスペンスなんかでは確かにそのほうがいいでしょう。
『ちひろさん』の場合、はじめの30分くらいのところでとある登場人物がなかなかの犯罪行為に手を染めるシーンがあります。"普通の映画"だったらこういうことがあると終盤でそれが警察にバレて大事件になったりするんだけど、これが誰にもバレずに最後までスルーされます。銃が発射されなかったわけで、チェーホフ激怒案件です。チェーホフじゃなくても「えっ、あれなんだったの?」となった人はいると思う。
でも、別にそれでいいじゃん。と思うのです。もしかしたら何年後かにあれで捕まるかもしれないし、捕まらないかもしれない。今の時点ではわからない。人生そういうもんじゃないですか。別に発射しない銃を持ってたっていいじゃないですか。
だいたい僕は昨今の「伏線回収」をもてはやす風潮が好きじゃないんですよ。あんなもんシナリオがだいたいできたとこで序盤にちょっと仕込めばいいだけの話で別にたいしたテクニックじゃねえですよ。よ〜し、人生の伏線を回収するゾ〜と思って生きてる人なんかいないじゃないですか。そんな人いたらキモいじゃないですか。いるの?いるならごめんなさい。

「あの 何も聞かないんですか?」
「え?」
「いや どうして ここに来たのかとか 何してたのかとか」
「そんなもん必要ないよ 俺は今 目の前のあんたと話してんだから」

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