トーン・フレーム・ムーヴマン——マンガ『ワンダンス』について
1.導入
直接言及しているテキストにはまだ出会えていないが、わたしは直感的に、イタリア未来派が日本マンガの表現に与えた影響は、とてつもなく大きいのではないかと直感している。たとえば、マンガにおける集中線や流線といった記号は、一般に手塚治虫が発明したとされている。しかし、これらは実は、生物や人工物の運動、その残像を一枚のキャンバスに閉じ込めるというイタリア未来派の画法にも共通して見られるものだ。西洋史観に則れば、近代絵画における静物画からの脱却と、マンガの発明にはそこまでのラグはなかったのではないだろうか。マンガの歴史を未来派のマニフェストからひもとくような実践がすでにあるのであれば、読者諸賢にぜひともご教授願いたい。
マンガ表現を切り開いたのは芸術だけではない。技術もここ五年でかなりの進歩を遂げ、かつての絵描きが望んでいた作業環境は揃いきったと断言してもいい。実際にマンガを描いているわたしの場合でも、iPad Pro 12.9 inch(およびInDesignなどを用いた多少のPC作業)ですべての原稿作業が完結してしまうようになったため、Cintiq 24HD touchという定価30万前後の最上位ランクの液タブが、今や自室の長机の三分の一を占める文鎮と化してしまっている。とはいえ、わたしはその30万を妬んでいるわけでも、ハードウェアの性能が上がったという話をしたいわけではない。わたしが主張したいのは、多数のマンガ家がアナログからデジタルへと作業環境を切り替えたことで、従来のアナログでは実践できなかった新たな画法を開発・実践するマンガ家が現れているということである。
本題に入ろう。そのような探究心のあるマンガ家の中でも、とりわけ「未来派的」「運動」表現の限界に挑もうとしているとあるマンガを紹介したいと思う——月刊アフタヌーンで連載中の『ワンダンス』という作品だ。
本作はアニメ化もされたボルダリングのヒットマンガ、『のぼる小寺さん』を手がけた作者珈琲が満を持して世に送り出した作品である。そして、これはおそらく彼の本命の一作である。というのは、彼は実際に自身がブレイクダンスやハウスダンスといった「ストリートダンス」のプレイヤーであったと述べているからである。ダンスマンガというと、『ボールルームへようこそ』や『10DANCE』、『背すじをピン!と〜鹿高競技ダンス部へようこそ〜』といった競技ダンスの増加傾向が見られるが、『ワンダンス』はあくまで「ストリートダンス」マンガであるという点を強調しておきたい。筆者の知るかぎり、この類のマンガは意外にこれまで存在しなかった。以下にネタバレがない程度にあらすじを記そう:
こうして花木は、同級生の男性部員が一人しかいないダンス部で(少し)肩身の狭い思いをしながらも、先輩である宮尾恩や厳島伊折の教えを受けて、次第にその才能を開花していく。そして、先輩部員たちの後押しを受け、実力はまだ未熟ながらも「高校対抗ダンスバトル」に出場することになる。そして、この三巻のダンスバトル編から、作者の野心的かつ実験的な作画の探究が始まる。
2.トーン・フレーム・ムーヴマン
それでは実際に、ワンダンスの既刊三巻以降における珈琲の工夫をトーン・フレーム・ムーヴマンという三つの区分に分け、なぜ『ワンダンス』の画風が未来派的だと言えるのかを解説していきたい。
2.1.トーン——網点の描線
まずは珈琲のトーンの使い方から見ていく。マンガのコマ割り構造的に観察すれば、初っぱなからコマをレイヤー状に重ねるという特殊な配置を使用しているのだが、やはり視線の先はページ中央の異形な輪郭のダンサーへ向かうだろう。一介のアマチュアではあるが、いちおうマンガを描いているわたしが観察するかぎり、珈琲はこのページだけで軽く十以上の技法を大胆に使いこなしている。そのなかでもとりわけ際だっている技術を二つ解説していきたい。
第一に、全面に張り巡らされた薄いトーンである。用紙のホワイトを嫌い、いわゆる60線10%のトーンを張ることで画面を「保たせる」作家は少なくないが、珈琲のトーンは均一なトーンではなく、濃淡のあるテクスチャが乗っているところがミソである。これによって、フロアに鳴り響く音楽の拍などが暗に示されていると解釈できる。
そして第二に——これがおそらくこのページの一番の特徴である——ダンサーの周りを漂う白い蒸気のような線に着目したい。これはダンサーの体幹の残像、軌跡と、音楽的なリズムが同期していることを表現するために用いられているように見える。この若干透明度がある白い筆は、珈琲の七つ道具としてこの後も多用される。透明度があるブラシで描くというのは、アナログ時代の技法で例えれば薄墨で描くようなもので、白黒の二階調で画面構成をする伝統が残っていた当時においては、印刷時の出来がイメージしづらいことから忌避されていた。そして、デジタルでの作画がメインストリームになった現在においても、マンガの作画においてはあまり見ないと言ってよい。黒い付けペンでの描き込みもしつつ、メタなレイヤーでスクリーントーンの筆を乗せるということ——これが珈琲のデジタル作画における特筆すべき技法である。
2.2 フレーム——時間が流れる一枚絵
珈琲の運動表現は、絵画のような一枚絵の中でのみでなく、マンガならではのメタ要素であるコマ割り、いわばフレームにまで及んでいる。それを象徴するのが上記の二枚である。
一枚目の画面は、同じダンサーを三人並べて描くことで運動を表現するという意味ではとりたててめずらしい技法ではないのだが、その上に引かれた格子状の白線、グリッド状のフレームが、通常のコマ割りとは違う時間感覚を演出するのに一役かっている。格子の線を挟んで微妙に人物の絵をカットアップ——切り刻み、ズラすことで、一見ふつうの運動をしているだけの三つの立ち絵(?)に細かな差異を生じさせ、細かい運動を描写することに成功している。
二枚目の画もわかりやすい例で、本来はただの一枚絵、立ち絵であったヒロイン・湾田のハンドウェーブの動き、左手の指先から右手の指先まで波が伝って行く動きを、フレームを挟みズラすことで表現している。画としての完成度はもちろん、流線や効果線を介さずに時間と運動を表現した卓越した例である。
2.3 ムーヴマン——運動する画面
まずは一枚目を分析する。第一に、ヒロイン・湾田のパワフルなムーヴが表現されているのは、未来派における数を増やすことによる表現——「走る馬の脚は四本ではなく二十本になり、その動きは三角形になる」——が押し出されていることによる。また、人物の線画をラフに描いたあとにコピーアンドペーストし、輪郭を極端にブラしていることも運動表現にかっている。また、本来平面であるはずの床がまるで砂丘のように波打っている点にも着目したい。これはカメラにおいて三脚などで足場を固定せず、露光時間を長くしたうえでわざと「ブラす」モーションブラーを模倣している。おそらくはClip StudioやPhotoshopのゆがみツールなどを使用して再現されたことと思われるが、このように背景も歪ませることで、ダンスの鑑賞者が視覚を通じて体験している空間の「ゆらぎ」の表現に成功している。
次に二枚目だが、フロアで踊るキャラクターの上に重ねるように、大きさを変え、奥行きとリズムを生みながらリズムを刻む手と水滴がデペイズマン——異なるコンテクストのものを別の場所に配置し、超現実を現出させるシュルレアリスムの手法——されている。それらは、ダンスの軌道と絡むように表され、画面全体の奥行きを作り、読みのリズムを生んでいる。手や水滴は記号であるとともに、このキャラクターが体験するリズムである。この画面には一眼でそれを伝えるだけの情報量がある。
3.隕石としての『ワンダンス』
以上のように、『ワンダンス』は未来派、そしてシュルレアリスムといった近代芸術運動の手法を多分に取り入れた、古典的であるがゆえに見過ごされてきた記号表現を応用した画面構成を多用している(このテキストで紹介した例はごくわずかであり、月刊誌というページ数の成約から解き放たれたがゆえの驚きの数の画が、十倍、いや二十倍はあることを付記しておく)。
ところで、海外から輸入されたアヴァンギャルドがイラストレーションに影響を与え、その中からマンガが発展して独自の表現を可能にしていったことはよく知られているが、『ワンダンス』の運動表現が未来派的に感じられるのは、未来派が大衆化したイラストの技法を多分に取り入れたことによっている、と言えるのではないだろうか。もちろんそれは、テクノロジカルな技術とマンガ家の手とのインタラクションの最前線——アヴァンギャルド——が可能にしていることである。
とにかく、わたしが『ワンダンス』に見出すのは、惜しみない近代美術と技術の知識から成る、画としての圧——隕石のような画面の強度である。この作品が広く読まれ、読者の目を血みどろにし、既存のマンガ表現に風穴を開けることを願いつつ、わたしは口をつぐんで一介のマンガ家の卵へ戻ることにしたい。