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「もっと上手に世を渡れたら」/島アンソロジー参加作品 [小説]

本作品は「島アンソロジー」への参加作品です。
https://note.com/denpun/n/n294bb82e7d00


「もっと上手に世を渡れたら」

  1

 何度も口にしてきた。
 わたしは女の子がほしい、って。
 あなたの瞳が泳ぐのを見つめながら何度も想いを伝えてきた。でも女の子ができる前にあなたは消えてしまった。
「ねえ、ママ。ぼく、なみのおとをもってかえりたいんだ」
 ノイズが引いては遠ざかっていく。かぎ爪のような跡が砂浜に残る。薄い地表が削り取られた底には貝殻の欠片が海をまとって輝いていた。
「ミキちゃんがいってたんだ……かいがらには、なみのおとがはいってるんだって」
 わたしの九番目の息子が恥ずかしそうにねだる。

 ――貝殻には波の音が入ってる。

 ロマンチックな夢を壊してしまって良いならば、その言葉は嘘だ。わたしたちの耳には否応がなく様々な音が入り込む。貝殻を耳に当てると、そうした音のほとんどが遮断されて聴こえなくなるのだ。その果てに残った音は波が発する周波数とそっくりになる。いわば波の偽物。貝殻は聴きたい音だけを選んで集めるための道具なのだ。
 でも、わたしにはその偽物の夢を壊すことなどできなかった。なぜならわたしは夢が美しいままであり続けることを願っているから。
 たとえばあなたは知っているだろうか。
 貝殻にまつわるさらにロマンチックなお話を。
 厳密には貝楼諸島にまつわるとっても素敵な物語を。


  2

「貝楼諸島は何個もある」という言説を聞いたことがあるだろうか。そりゃあ諸島なんだから、貝楼諸島はそもそもが複数の島の集合体だ。
 でもここで語りたいのはただの言葉遊びなどではない。
 たとえばかつてこんな出来事があった。貝楼諸島の存在しない観光雑誌。誰も知らない、発行された記録もない観光雑誌。そこには誰も知らない貝楼諸島の景色がリアリティたっぷりに広がっていた。
 インターネットでその雑誌の切り抜きを公開したユーザーは、かつて都内の書店で雑誌を購入したのだと主張した。そしてある島の名を挙げて「またここに行きたい」と記事を締めている。その島の海辺には無数の風車が幾何学的に並んでいたとも記している。まるでゲームの世界のようだったと。
 しかしそんな名前の島はこの世には存在しなかった。貝楼諸島は謎の多い島群だが、この情報化社会の中にあって誰も知らない島なんてものは存在し得ない。
 一部の界隈では彼は別世界から海を渡ってきたのではないか、という噂がにわかに蔓延った。突飛な発想だ。でも、それを信じた人たちは本気でそれを信じていた。
 結局、すぐにその幻の雑誌は偽物であったことが明かされた。あれはとある会社が仕掛けた新作の観光体験VRゲームのプロモーション企画だったのだ。舞台は架空の貝楼諸島。キャチコピーは「あなただけの島を創ろう」。
 あなたはわたしにその仕事の成果を見せてくれたけれど、フィクションだと明言されなければきっと騙されたままだったに違いない。あなたは意図しなかっただろうけれど、そういう力が込められていた。
 ゆえに、嘘だと開示された後も、それを信じる人々はたくさんいた。でも、認知の歪みは、けしてフェイク雑誌単体の魔力によるものではなかった。
「貝楼諸島は何個もある」
 違う。正確に言うとこうだ。
「貝楼諸島の数だけ世界は存在している」
 そんなロマンチックな幻想がすでにわたしたちの中には蔓延していた。


   3

「ほら、耳を澄ませてごらん」
 泥で洗われてギザギザになった貝殻で、息子の小さな耳をすっぽりと覆う。
 ブラインドの隙間から差し込む陽光が殻皮をてらてらと輝かせる。まるで可愛らしいアクセサリーのようだ。
「ホントだ、摩耶ちゃんの言ったとおりだ。波の音が聞こえる」
 ざざぁ、ざざぁ、と身体を波に模して揺らす彼は、小さな耳を再び貝殻で覆った。そして目を閉じながらこう言う。
「でもさ、これって本当は波の音じゃないんだよ。ぼく、ネットで調べたんだ」
「そうなんだ。知らなかったな」
 無知を装ったわたしの返答に得意げな息子。
 しかしそれは誰かから与えられたインスタントな科学だった。
「でも、どこか遠くに繋がるような気がしない……?」
 わたしは貝殻にまつわるもうひとつの噂を口にした。
「それって貝楼諸島がたくさんあるって話?」
 そう。貝楼諸島で拾った貝殻には、別の世界で吹きこまれた音声が保存されていることがあるという。死に分かれた恋人の「愛してる」という言葉を聞いた女性の話は、この噂を信じる人々の間で有名だ。
「あはは、ママはそんな夢みたいな話を信じてるの?」
 そんなロマンチックな物語を、息子は即座に一蹴した。
 わたしは知っている。こうしてあなたたちは少しずつ、わたしのような人間を馬鹿にするようになっていくのだ。解像度の低い「科学的」を盾に、未開の夢を平気で潰していくのだ。
 そう、あなたのように。

   4

「君はそんな噂を信じてるのかい」
 あなたはそうやっていつも迷信を笑った。迷信と呼ばれるモノを信じるわたしを笑った。その度にわたしは自らの主張を引っ込める。口で闘ってもあなたに勝てる見込みなんて微塵もなかったから。
 でもその噂を裏付けるような事件が実際に起こっていたの。
 貝楼諸島への渡航が盛んになって以来、人が消える現象が多数観測されていた。言葉通りに人が消えてしまう例もあったし、貝楼諸島を訪れるために海を渡った人間が本島に帰ってきたらまるで別人のように変貌してしまっていた、なんて例もたくさん報告されていた。人間の性質に影響を及ぼすこの例は面白可笑しく「恋人を捨てたいなら貝楼諸島に行け」なんていう馬鹿らしい言葉にも好んで還元された。
「心配してくれるのは嬉しい。でも、もっと科学的になってくれよ」
 爽やかな微笑みで話題を終わらせようとするとき、あなたはいつも「科学的」という言葉を使った。
 あなたは科学者ではなかった。
 でも、あなたは優秀なゲームクリエイターだった。貝楼諸島のたくさんの島を行き来し、その島の自然環境や生態系の歴史を蒐集することが最近の仕事だと語っていた。その営みが彼に「科学的」という外套を着せているように感じられた。
 端的に言うと、わたしは彼が毎週のように貝楼諸島を渡っていくのが怖くてしかたがなかったのだ。彼の背中を見送る度に、いまの彼がどこか別の世界へ消えてしまうのではないかと気が気でなかった。しかしその恐怖心が汲み取られることはけしてなかった。
 なぜなら彼の頭の中では「貝楼諸島の数だけ世界は存在している」という噂は、ただの噂に過ぎなかったから。フィクションを創るあなたであっても、その噂は幻想に過ぎなかったから。
 わたしは彼の心にしがみつこうと必死だった。彼の心は波のようで、いつ消えてしまってもおかしくなかったから。だからわたしは何度もこう願った。
 女の子がほしい、って。
 わたしと彼の愛の証明としての女の子。わたしの可愛い可愛い女の子。彼という波をわたしに繋ぎ止めておくための『錨』としての女の子。
「必ず帰ってくるから」
 その言葉は確かに何度も叶えてもらった。でも、約束が二十回目を超えたころだろうか。
 時化が起こる冬のころに、彼は別の世界に行ってしまった。


   5

「大衆が謳う科学という言葉は所詮ハリボテなのよ。誰も私たちのことを真に考えるつもりなんてないわ」
 わたしに貝楼諸島のことを教えてくれたのは、グループで出会ったひとりの女性だった。彼女は自身の出身が経済学部であることを最初に明かし、医学の専門家ではないこと隠さずに伝えてくれた。
「でもね、私はこれで救われたの。あなたにも同じように救われてほしいわ」
 彼女がバッグから秘密のように取り出したのは純白の薬包紙だった。包まれた粉状のものがスターバックスのコーヒーにさらさらと注がれる。
「カフェインと一緒に摂取するといいのよ。おかげで私はこの子を健康に出産できた」
 彼女の隣には赤いランドセルを抱えた少女が行儀よく座っている。
 可愛い可愛い女の子だった。手持無沙汰にストローをかき混ぜる様子がなおさら愛おしい。
 少女が弄ぶカフェラテにも、粉状のものが注がれる。
 貝楼諸島は様々な世界に繋がっている。そこで採れた貝殻は波に乗って幾重もの世界を渡り歩いた末に、様々な世界の理を内包する。それらをすり潰して溶液化したものは、わたしを救う可能性があるのだという。
 わたしは女の子が欲しかった。彼女が産んだのと同じ女の子。
 少女は異物の混じったカフェラテをこくりと口に含んだ。嫌気を催した様子はない。ただその味を「美味しいです」とだけ表現した。
「世間は私たちを非科学的な思想の持ち主だって嘲笑してる。でもね、そうやって私たちを笑う人たちも、結局は科学なるものを習熟していない阿呆ばかりなのよ。面白いでしょう?」
 誰もインターネットがどのように構築されているかなんて知らない。
 誰も電気や水道のようなインフラがどのように安定供給されているかなんて知らない。
 にも関わらず、貝楼諸島の貝殻を摂取する行為を「科学的じゃない」だなんて言って馬鹿にする。
 あなたたちがどういう姿勢で科学に向き合っているかなんて分からない。でもそこにわたし以上の切実さはあるのだろうか。
 わたしは信じたいものを、本気で信じていたいだけなのだ。
 信じるわたしが正しいことを証明したいだけなのだ。
 だから何度でも言うよ。
 わたしは女の子がほしい、って。
 

   6

「もう勘弁してくれ、僕はここで家族を作ってしまったんだ。君のその願いを叶えることはできない。わかるだろう……」
 信じたくない光景を目にしてしまったのは、彼がわたしの元から消えてから半年が経った頃のことだった。貝楼諸島を渡り、別の世界に消えてしまったはずの彼は、福岡にいた。福岡で家族を作ったのだという。彼の新しいパートナーらしき女性が離れた場所からこちらを訝しんでいる。そのお腹は大きく膨らんでいた。妊娠七か月はとうに過ぎていた。
「ずっと、あなたは別の世界に行ってしまったのだとばかり……」
「そんなの迷信に決まってるじゃないか。君は迷信に弱すぎる。君のそういうところが僕はとても……怖かった。あのグループだって、僕は何度も抜けてくれってお願いしたぞ。でも君は聞かなかった」
 あなたはそうやっていつも迷信を笑う。そして、迷信と呼ばれるモノを信じるわたしを否定する。
 口で闘ってもあなたに勝てる見込みなんて微塵もない。でも、今日ばかりは彼の心へ追及せざるを得なかった。波の胸倉を掴んでこう叫ばずにはいられなかった。
 どうしてわたしを捨てたの。
 どうしてあの女なの。
 どうしてあの女のお腹には子どもが出来ているの。
 どうして、どうして、どうして……。
 ほら、いつものように論理的で科学的な言葉とやらを返してみてよ。
 わたしに議論を諦めさせてみせてよ。

「……わかってくれ。この気持ちは科学じゃない。愛は理屈じゃないんだよ」

 わたしは呆れて何も言えなかった。愛は理屈じゃない?
 じゃあ、どうしてわたしと同じ非科学的で非論理的な感情を備えるあなたたちが、わたしの夢想を笑うの。
 どうして、デマだとか、宗教だとか、恥ずかしいものを見るように後ろ指を向けてくるの。
 わたしは信じたいものを信じていたいだけなのに。
 唐突に訪れた吐き気を抑えるために、わたしは薬包紙を取り出し、彼の目の前で口の中に注いだ。まるでどうしようもないものを見るかのような冷めた視線が、薄く粉を被ったわたしのくちびるを突き刺す。どうしてそんな目をするの。この粉は貝楼諸島の貝殻から作られたもので、神経に直接作用して気分を落ち着けてくれる。なにもおかしいことはしてない。それにこの貝殻は、いつかわたしの願いを叶えてくれる。わたしの可愛い可愛い女の子……。
「もうやめるんだ。そんな偽物の薬を使ったって、君の問題は解消されない。現実を見るんだ。だって君はそもそも――」
 やめて。
 言わないで。
 わたしはそんなの信じてない。
「君はそもそも子どもをつくれない身体なんだよ」


   7

「貝楼諸島はもう何度目だい」
 フェリーの着場で船員がわたしに話しかける。
「悪いね、毎日どこかの島に渡ってるようだから。今日はひとりなのかい」
「何回渡ったかなんてもう覚えてないわ。それにわたしはずっとひとりよ」
 わたしはすでにグループの人間とも疎遠になっていた。結局彼女らも即席の救いが欲しいだけの人間の集まりに過ぎなかった。夢が正しいことを証明してはくれなかった。
 彼の背後には砂浜が広がっており、そこには無数の風車が幾何学的に並んでいる。これは初めて見る景色だった。わたしは祈るように砂浜に足を踏み入れる。
 そのとき、ふいに声が現れた。 
「ねえ、ママ。わたし、波の音を持って帰りたいの……」
 ノイズが近づいては遠ざかっていく。かぎ爪のような跡が砂浜に残る。薄い地表が削り取られた底には貝殻の欠片が海をまとって輝いていた。
「貝殻には波の音が入ってるって、将人くんが言ってたの」
 わたしの娘がそう言った。嗚呼……ようやく、ようやく出会えたね。
 ここまで来るのにたくさんのお別れを経験してきた。自分のお腹を痛めずに出会った、たくさんの息子たちとの別れを。引いては捨て、引いては捨て、欲しいものが手に入るまで何度も海を渡った。
 もしわたしがもっと上手に世を渡れたら、こんなあくどい真似はせずに済んだのだろうか。誰とも別れずに済んだのだろうか。
 わたしの可愛い可愛い女の子。わたしが正しいことの証明としての女の子。
 もしも、幾重の仮説と検証の果てに事実へ辿り着く行為こそを「科学的」と呼ぶならば、きっとわたしこそが真の意味で科学的な人間のはずだ。
 でも、誰か教えて。これからわたしはどうすればいいの。
 あの人との関係は決定的に壊れてしまったし、何よりわたしの心にはもう誰への想いも残っていない。わたしは自分の心こそが移ろいやすい波のような存在だったのだとようやく気がついた。ただ一方向だけを照らす光を頼りにここまで辿り着いたけれど、目的地の一歩先には何もない未来が空虚に広がっているだけ。そしてようやく出会えた愛しい娘の存在は、わたしをこの何もない未来に縛り付ける錨になってしまうのではないか。そんな恐怖心が私のなかを引いては遠ざかっていく。
 ねえ、誰か教えて。わたしはここからどうやって未来へと渡っていけばいいの。
 生きるのが下手なわたしには、問いかける相手はひとりもいなかった。

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