翔くんの未来を見る日 at 37 櫻井翔くん誕生日
特別ひねくれている訳ではないけど、
誕生日で「おめでとう」と言うことに少し違和感を覚えてしまいます。
1歳の誕生日、2歳の誕生日で「おめでとう」と言うことは
「貴方の命が1年間生を持つことができたね!よかったね!」
と言うことなのだと認識しています。
2018年の12月31日と2019年の1月1日、
そして2019年1月24日と2019年の1月25日の違いは一体どこに存在してるのだろうか。
という「誕生日」の特別さが分からないでいる自分は
中学1年生の時に考えた柵も関係しているのかもしれない
と気づきました。
と言うのは、私は誕生日は「未来を見る日」だと頭の片隅にあるからです。
この考え、このワンフレーズで収まるこの「未来を見る日」というのは
2019年1月1日、そして1月25日という地点に立ってから初めて、今年目指す、この歳で目指す夢だとか目標が見えるっていう
漠然とした若すぎた自分なりの誕生日の捉え方でした。
そんなひねくれた記事を書いていたのですが、
昨日LINEで
「明日は翔くんの誕生日だよ!翔くんの誕生日って自分の誕生日よりも忘れないよね。」
と私が発したら
友人は
「なんか、深いな。」
と返してくれました。正直私はその答えを予想してませんでした。
私としては「ジャニーズファンあるある」といった枠に括られるような「ごく当たり前の状況」だと思ってLINEに書き込んだからです。
そのごく当たり前の状況に対して「深い」という言葉がすごく気になりました。
私はその友人にも、他の友人にも誕生日になれば「おめでとう」と定型文を送ってスタンプを送っている。
しかし、
確かにそうだな、翔くんの誕生日は何かそのごく普通の誕生日とは違った特別な日だな、と。
これは、「翔くんの誕生日」そのものがその特別さを生み出しているのか、いやもしそうだとすればその特別さは何であるのか。そう考えを巡らしていました。
私はそこで懐かしいかな中学生の時、上記の友人と私の翔くんへの感情について語り合ったことがあるのですが、その時に
「愛とは宗教的で、絶対的なものである。」
というワンフレーズが出てきたのを思い出しました。
私の「翔くんの誕生日」を特別だと思うのは、「翔くんの誕生日」ではなくて「翔くん」自体が作用しているんだ!
と気づきました。
愛の正体が「宗教的で絶対的」であるならば、私は翔くんに対して愛を抱いている。私には櫻井翔愛たるものがある。
さて、そういうことであるならば、
キリスト教でクリスマスが聖誕祭として盛大に祝うことと同一のものとして捉えるのでしょうか?
私はそうではないと思っていて、
誤解を招かないことを祈りますが、
日本にとっての天皇誕生日に近いと思っています。日本にとって天皇誕生日は祝日であり、国民はもちろんその日を祝日として忘れることはないけれど、
日本自体にとっての天皇誕生日が、日本が天皇誕生日を忘れることはなく、特別な感情を抱いているのと同様に
私にとっての櫻井翔くんの誕生日とはそういうものです。
その感情を抱くことは私たち担当を持つものにとってごく当たり前の状況かもしれないけれど。
昨日の夜11時ごろにこんな考えのきっかけを与えられてしまい、
結局記事を上げるのが滑り込みもいいところだって時間帯になってしまいましたが。
そしてさらに残念なことに私は今年、何個か櫻井翔くん誕生日記事を書いているのですが、
そのどの記事でも、「おめでとう」と言うことができません。
確かに翔くんの誕生日は特別だ、特別になる理由はわかりましたが、年越しと誕生日の違いは何ですか?
っていう結論を出しかけて、
今回の記事のタイトルを思い出し、
「未来を見ることがめでたいことだから。」なのではないかと思いました。
おそらくあけましておめでとうと誕生日おめでとうの違いは無くて、
その「未来を見ること」がめでたいことっていう意味で
「誕生日おめでとう。」という一節を生み出しているのではないか、と。
そんな結論で、どうでしょうか。
と、いうことであるのならば・・・
翔くん、37歳も素敵な1年にすることができますように。
翔くん、誕生日おめでとう。
でっかい背中で、でっかい夢を目指す貴方についていきます!