【連載小説】南都封鎖(雪舞心計8) ハク/ジウォン
7年前。
ビョルンはハクを連れて市へ買い物に出かけると、よく声をかけられたり、まけてくれたり、売れ残ったものをもらえたりすることに気づいた。
先週は白菜を、今日はひよこ豆を大量にもらった。
おかげで護身用の短槍も持たず手ぶらで出てきたというのに、すぐにふたりの両手は手荷物でいっぱいになった。
ビョルンはちらりと、となりの大きな琥珀の眼をしたひな鳥のような子どもを見る。
ビョルンひとり歩いていてもこうはいかない。
ジウォンを連れていてもこうはならないだろう。
ひな鳥のようについてくる子どもは、珍しい色をしていた。
異国の血が入っていることを思わせる亜麻色の髪に琥珀の瞳。
加えて、まだ子どもだが、ここらで見かけるどの子どもよりも可愛らしく、幼いながらも秀麗な顔立ちをしている。
(まずいな)
ただ歩いているだけで衆目を集めるのだ。
そうでなくとも、ジウォンとハクならばともかく、ビョルンとハクではひよこと野獣だ。
そこにいるだけでかなり目立つ。
ビョルンは自分はそれほど体格に恵まれていないと思っていたので、自分が野獣とまでは思っていなかったが、冴えない中年であることには大いに自覚があった。
人さらいを警戒してばかりいたが、この状況では自分が人さらいにみなされかねない。
ビョルンは、てきとうに面紗付きの笠を買い、ぽすん、とハクの頭の上にのせる。
ハクが不思議そうにビョルンを見上げた。
面紗付きの笠は通常、女人が外出時に日よけのために着用するからだ。
「かぶっておきなさい。人さらいにあってはいけないからね」
ハクは解せない、という顔をしていたがこくんとうなづいた。
そして、ビョルンは両手で抱えていた荷物を左の肩に担ぎなおし、空いた手でハクから荷物を半分奪った。
奪った荷物も左の肩に担ぐと空いた手をハクに差し出す。
「ほれ。ハク坊、ひよこ豆。手をとれ」
「うん」
ひよこ豆と呼ばれてハクはこくんとうなづき、わらびの手でビョルンの手をつかむ。
ビョルンがハクの歩幅に合わせて歩いていたらどうしても帰宅が遅くなってジウォンが腹をすかすだろうが、人さらいにあうよりずっと良い。
「よっこいしょ。しっかりついてきなさい。ここは人通りも多いから。決してはぐれないように」
市から新月山にもどり、舗装されていない道しばらくを歩くと、木々に隠れるようにしてその棲家はある。
小さなあばら屋で3人が住むには手狭だがハクが小さいうちはまだなんとかなるだろう。
ビョルンは面紗で隠した子どもを見下ろす。
(すぐでっかくなるんだろうなあ)
父親のように。
そういえば、父親も端麗な顔をしていた、とビョルンは思い返す。
西方の血をひく者は彫りの深い顔立ちにしなやかだが大きな体躯をもつ者が多い。
恵まれた体格をいかして、軍や戦で身を立てる者もいる。
あのおっかない屈強な美丈夫も、幼い頃はこの子どものようにあどけなかったのかと思うと感慨深かった。
その子どもはといえば、ビョルンの手をつかんだまま、身動きせず、面紗越しに、じっと前を見ていた。
視線の先にジウォンが短槍を構えている。
(落ちてくる木の葉を狙っているのか)
風に揺れて落ちた葉は次の瞬間、ジウォンの風を斬った刃にかかってふたつに裂けた。
ビョルンの手をつかむわらびの指に力がこもる。
(ハク坊の視線を奪うとは我が教え子ながら大したもんだ)
「卑しい妓女の子が。どこの馬の骨とも知れぬ無系の者が千夏宮にも出入りを許されているなんて」
使い古された侮蔑の言葉をトアハは幾度も耳にしてきた。
だが自分を指して叩かれた影口を放っておくほど、トアハは育ちが良くなかった。
口数の多い男は妓女にも好かれんぞ、と影口を叩いていた男たちの背後から現れる。
「忘れてたよ。確かに母は南楽坊の妓女だった。ソムン氏の落胤とかで一時期たいそう有名だったらしいな」
「こ、これは、大師兄どの」
「わたしのように勢門の出身でない者は、文字通りその身一つで己の才覚だけを頼みにしなければならぬ。名門氏族の方々はお気楽でいいな?」
男たちがそそくさと、気まづそうに一礼し、逃げていくのを見守ると、後ろから声がした。
「大師兄。あんた、有能なんだな」
「ツェラン。聞いてたのか。なぜそう思うんだ?」
「無能者は今のように、有能な者のあらを探すものだが、出自のことでしか師兄を貶すことができなかった。」
「だが彼らの言うように私は氏を持たぬ無系だ。つきまとっても得はせんぞ」
「気にすることか。南の宮主さまは高貴な出だそうだが、北の宮主さまは無系だ。無系の者のほうが圧倒的に多いんだ。それに俺は生まれを笠にきたやつが嫌いだ」
「気が合うな。私もだ。そうだ、執務室の片付けを手伝ってくれないか」
「かまわないが。さっきの、ソムン氏って?誰が落胤だって?」
「あー。わたしの母がな。ソムン氏の血筋らしい、って聞いてる。もちろん直系じゃなくて傍系だろうけど」
妓女が自分を売るためにソムン氏の血筋を語ったのかもしれんがな、とトアハは付け加えようとしたがそれよりも先にツェランが反応した。
「ああ、だからか」
「?」
ずい、とツェランがトアハの前に出た。
「眼がとりこむ光の量が多いのか、他の奴らより色が薄くて玻璃みたいだと思ってたんだ。南の奴らがそうなんじゃなくて、あんただからなんだな」
「!」
眼の最奥を覗き込まれ、見えないなにかに拘束されたようにトアハは動けなかった。
必然的にツェランの人懐こそうなアーモンド型の双眸を見つめかえすことになった。
じきにツェランの視線から外れ、双眸の拘束は解けた。
「執務室の片付けだったな。行こう」
南都紅宮にある盟主の執務室では、書物や木簡や竹簡を巻物状にしたものが所狭しと積み上げられている。
少しでもものを動かすと積み上げられていたものが崩れてしまう。
執務室に足を踏み入れたツェランの前にほこりをかぶった書物が一冊落ちてきた。
(なんだ?歴史書?)
落ちてきた衝撃で書物の最後のページが開いていた。
『北方将军雪家灭亡了。雪将军的弟弟带着将军的遗子雪慈苑逃走了。没人知道他们去了哪里』
ツェランが書物を拾い上げようとすると、後ろから声がかかった。
「ツェラン、無事か?文字が読めるのか?」
「い、いや。読めませんが、手本のような、見事な書体だと思って…」
「ふ。嬉しいことを言ってくれる。それはわたしが書き写したものだ。『将軍令』の引用だよ」
「『将軍令』…。」
武人ならば誰でも一度は耳にする。かつて、戦場にその者ありと、南北にその名をとどろかせた将軍とその一族の栄光と没落を。
ツェランはトアハを盗み見た。
今や、南の門弟を束ねる男も伝説の英雄に憧れたことがあったのかもしれない。
(くそがああぁぁ!)
南都紅宮への侵入に失敗したヒオクは北へ向けて全速力で走っていた。
門が封鎖されたなら、南都が警戒する北の方で動きがあったのかも知れない。
封鎖される前になんとしても南都からでなければならなかった。
(南都封鎖だと。ふざけんな!)
ナムグン家の姫を囲い込んで閉じ込めようなんて、大がかりすぎるだろ!
南都を出ていたジウォンは、ビョルンがいる新月山へ向かっていた。
ハクのことをビョルンに相談するためだ。
山の緩やかな斜面を歩きながらジウォンは考えていた。
山小屋のある新月山から北上すれば計都にたどり着く。
計都はソムン氏の縄張りだ。
ソムン氏にハクがあなたの生き別れた息子かもしれないということを伝えるのが筋だろうと思われた。
(やめよう。現実的じゃない)
ソムン氏は北の王族筋だ。当主に謁見できるかもわからないのだ。
計都まで行くにも数日かかる。
ハクとは三日後に冠衣楼付近の南都の東門で待ち合わせる約束をしていた。
狙われているかもしれない以上、あまりそばを離れるべきではなかったが、ジウォンはビョルンにハクの生い立ちをふくめて相談するつもりでいた。もしそこにハクが居合わせれば、ハクの記憶を刺激しかねない。
(それだけは絶対だめだ)
自ら消してしまった記憶を掘り返して再び傷ついてほしくない。
育ちきっていない幼い心が傷ついたならなおさらだ。
強く成長した今ならば、思い出しても耐えられるかもしれないが、負わなくていい傷だ。
それに、冠衣楼では南都紅宮の側仕えを募集していると聞いていた。
南の有力氏族の側仕えを選抜する会場の近くであれば、そうそう物騒なことは起きないだろう。
三日後に、南都の街や冠衣楼で万が一、すれ違うようなことがあれば、時期をみて、中秋節に芙蓉館で落ち合おうと約束し、ハクとジウォンは別れた。
冠衣楼からそれほど離れていない南都の東門では、ちょっとした人だかりができていた。
夜間にならなければ閉じない門がまだ日が高いうちに閉門したからだ。
門限までにはまだかなりの時間があったが、門が開かないとわかると、あきらめて引き返す者も多い。そのなかで、ひとり、ねばる者がいた。ハクだ。
「お役人さま、家族がまだ戻って来ていないんです。きっと新月山にいるはず。なんとか通してもらえませんか?」
「お若いの、ここのお人じゃないね。わずかに計都なまりがあるが北から来たのかい?だが門を封鎖するのはお上の命令なんだ」
「けれど、西門も北門も閉鎖されていて、外でなにかあったのでしょうか」
もともと冠衣楼近くでジウォンとは待ち合わせる予定だったが、時間になってもジウォンは現れなかった。
そこでハクは北や西の門まで足を伸ばしたが、北も西も真っ先に閉門したというではないか。
すれ違ったのかもしれないと思いながら当初の待ち合わせ場所である冠衣楼まで戻ったが、今度は東門まで閉門してしまった。
再三、門番はハクに開門はできない、引き返すようにと促したが、ハクは引き下がらなかった。
なんとしても南都を出て、ジウォンに会わなければならないと思った。
ハクがジウォンにしばらく南都で暮らそうと切り出した夜、ハクには考えていることがあった。
追撃者に襲われた日、ジウォンはハクが狙われていると予想したが、ハクの推測は真逆だった。
ハクは北に狙われているのはジウォンだと推測した。
当初、ハクも色目人の自分が狙われているのだろうと思った。
しかし、ただのならず者なら、ジウォンが短槍をふりかざして抵抗すれば、ひき返して逃げるはずだった。
確かに追手に背後からつけ狙われたのはハクだったが、追撃者たちはジウォンが現れてからも怯まなかった。
まるで、自分を追撃すれば、ジウォンが現れるのを予想していたかのように応戦した。
色目人は珍しい。髪や眼や肌の色もさまざまで、絶対的な数が少ない。
槍を使う武人は珍しくない。しかし、敵が狙う武人が色目人といつも一緒にいることをつかんでいるのだとしたら。つけ狙うのはいっきに容易になる。
狙っていた獲物についてきた色目人は、てきとうに奴隷商人にでも売ってしまえばいい。
敵が北から来たのなら、南にいなければならない。
だからあの夜、南都にしばらくとどまることを提案した。
秋になったら、紅慶の紅葉を見ようと。
ジウォンはハクの言うことにたいてい聞く耳をもってくれる。
さっそくビョルンに話を持ちかけるといって、数日前に南都を発った。
それが、こんなことになるとは。
「ここより、北の、白夜湖の方で騒ぎが起きてるそうだ。なんでもその騒ぎで、計都の雪威団も動いたようでね。南都に火の粉が及ばぬようにお上も警戒されているんだろう」
(白夜湖⁉︎)
ビョルンたちの家がある新月山の麓の湖で、南北の境界であり、芙蓉館はその湖を臨む土地にある。
北の軍団が動くような騒ぎならただ事ではないだろう。混乱に巻き込まれればひとたまりもない。
(もしも師父やジウォンが南都に入れていなければ)
ふたりの身になにかあったら。
「僕を通してください!新月山に行かないと!」
ハクは、急激に心拍数が上がるのを感じた。胸の皮膚の下で心臓がいつもより大きな音を立てる。
「なんの騒ぎだ」
門が閉鎖されたことを見届けるためやってきたトアハを見つけるとハクはすがりついた。
不敬な、とトアハに従っていた侍従に突き飛ばされ地面に崩れるがハクは懸命に顔を上げた。
「旦那さま!ジウォンがまだ南都に戻っていないのです。数日前の短槍使いです!もしかしたらすれ違いになったのかも。見かけていませんか?」
トアハは怪訝な顔をした。少し顔を見知った程度の者の名前などたいして興味もないのでふだんなら気に留めない。
しかし、少年が口にした名前はどこかで聞き覚えがあった。
(ジウォン……?)
だが、どこで聞いたのかまるで思い出せない。
(こんなとき、師妹がいれば)
一の状況から十を知るハランならば、少年が焦って口にした名前がどの氏族の末裔なのかわかったかもしれない。
「どうか後生です。僕を門の外へ出して!誰か、ジウォンを見つけて…」
しびれを切らした門番のひとりがハクをど突き、怒鳴りつける。
「まだ言うか小僧!騒いで門は開かんぞ!」
大柄な門番にど突かれ、ハクは再び地面に転がるように崩れた。
かれこれ数時間もこうして役人たちに縋っているのだ。
騒ぎ立てても、門が開かないことをハクの頭は理解しようとしていた。
ビョルンとジウォンの身が危ないこと、何者かが、ジウォンを狙っていること、閉ざされたままの門と変わらない状況。
焦燥と興奮でハクの目に涙が滲む。意思とは関係なく眦に浮かんでくる涙を隠すため、ハクは顔を下げた。
がやがやとしていた周囲が一瞬静まり、ちょっとした影ができる。
大勢にかしづかれた輿からひとり、貴婦人が姿をあらわした。
人だかりから一筋の道ができ、貴婦人を通した。
貴婦人はまっすぐハクの前へと足をすすめた。
「面をあげなさい」
ハクが言われるまま力なく顔を上げる。
朝露に濡れた梨の花のような顔があらわになる。
眦がわずかに濡れた様は、かつて、嫁入りを前に隠れて泣いていた貴婦人の妹に酷似していた。
貴婦人の、記憶のなかの妹の声が甦った。
『カジン、カジン。わたしね、北へお嫁に行くことになったの。わたしの子は父親から名をもらうけど、あなたにも名を考えてほしい。子が成長して、南に行っても困らないように』
カジンはわずかにふるえる指先で、ハクの眦をぬぐってやる。
(面影がある)
嫁入りを機に、南北で別れることになってしまった妹に。
『ハジン、わたしの妹。わたしの子の名前にはあなたから一字とるわ。あなたに子が生まれたら、わたしが名づけ親になってあげる。だから誰より幸せになるのよ』
月が闇に喰われる夜に生まれた双子の姉妹は生まれたときからずっと一緒だったし、これからもずっと一緒にいるものだとふたりは思っていた。
姉カジンが南へ、妹ハジンが北へ嫁入りすることになるまでは。
ふたりとも真紅の豪奢な婚礼衣装をその身に纏っていた。別れの時、ふたりの花嫁は抱擁を交わした。
ハジン。わたしの半身。誰より幸せになるはずだった、わたしの妹。
「そなた、名は?名はなんという」
「....ハク。ソムン・ハク」
息を呑んだのはトアハだった。
いつもは宮中の奥深くにいて姿を現さない南都紅宮の女主人が現れたのも予想外だったし、少年はかつて滅門したはずの氏族の名前を口にした。
七年前に滅門したソムン氏族の名はあまりにも有名すぎた。それに目の前の少年はうわさに聞くソムン氏であることを裏付けるような美少年だ。
そして目の前の少年がソムン氏の遺児だというのなら、ナムグン・ハジンの忘れ形見であり、カジンの甥ということになる。
「そうか。イーハンはそなたをハクと名づけたんだったな。そなた、わたしがわかるか?」
訊かれてハクは貴婦人の顔を見上げる。
知らない顔のはずなのに見覚えがあるような気がする。
(え?)
ハクの脳裏に一瞬、いないと思っていた母の記憶が断片的に甦りかけた。
「どちらにせよ、白夜湖付近でソル氏族の残党が現れた。ゆえに、ここを通すわけにはいかぬ。ところでハク。そなたは誰を探しているのだ?」
ジウォンはビョルンを探した。
気まぐれな叔父はたいてい鍛錬か山菜採りに出かけている。しかし、その日に限って、あたりを見回しても、なかなか見つけることができなかった。
南都へ向かうまで3人で過ごしていたあばら屋ももぬけの空だった。
街へ買い出しにでも行ってるのだろうと思い、ひとまず下山して芙蓉館へ向かうことにした。しばらく南都にとどまることを館主に伝えなければならない。
日が照り、じっとりと汗が滲んだ。夏の暑さはそれだけで思考を奪っていく。
暦の上では中元節を迎えようとしていた。鬼と人の世が重なり混じるという中元節。
ハクと出会ったのも7年前のこの頃だったとジウォンは回想する。
芙蓉館の門をくぐると、いつもより物々しい雰囲気に違和感を覚えた。
黒衣や紺色の服の男たちが何かを探っているのか、ものをひっくり返したりバタバタと動きまわっている。
紺色の服を着た男が館主になにかを聞いている。
客商売の芙蓉館の館主が腕を組み、身を硬くしているのは珍しいことだ。
「館主。ここにソムン氏の末裔の少年がいると噂を聞きつけて来たのだが、どこにいる?」
「ソムン氏の末裔だって?ほんとの話ならさぞ美形なんだろうね。そんなの客を呼び込むためにどこの客楼でもやってるでっちあげの宣伝文句だろ」
従業員に詰めより、むたいを働く者もいたのでジウォンは従業員と黒衣の男の間に割って入り、男を引き剥がした。引き剥がされた衝撃で男が転がる。
「ジウォン⁉︎南都にいるはずでは?なんで来たんだ」
「館主、そちらの若者は?見たところ、芸者ではなさそうだが」
「うちの用心棒だよ!わかったならさっさと失せな」
ジウォンに仲間を突き飛ばされて、黒衣の男たちがジウォンにつかみかかろうとする。
ジウォンはとっさにどこの建物にもあるような壁に備え付けられている護身用の短槍を手に構え、男たちを振り払った。
黒衣の男のひとりが言った。
「我らは北の宮主さまの命を受けて参った。そちらの若者に来てもらおう」
「ジウォン!うちの子たちをつれて逃げなさい!」
「逃げるったって、そうもいってられないだろ、これ」
ジウォンが短槍を構えたことで男たちを刺激してしまったようだ。黒衣の男たちが抜刀する。
一般人に乱暴をしてはならない、と紺色の服をきた何人かが黒衣のほうを止めにかかるが黒衣が紺色を殴り飛ばす。
「雪威団の奴らが。手柄を横取りするか!」
仲間割れをはじめ、乱闘状態になるが、そんなことはジウォンには関係のないことだ。
ジウォンは黒衣も紺色も短槍で叩きのめし、薙ぎ倒した。
芙蓉館の館主の言うように、商売のために楽師や妓男がソムン氏の末裔を語り客を呼び込もうとするのはよくあることだった。
ソムン・イーハンの前に何人、息子を名乗る者が現れたかしれなかった。
芙蓉館にいる楽師の少年がソムン氏を思わせるような美形だという話はイーハンの耳にも届いていたが、イーハン率いる雪威団が芙蓉館に来たのは北海氷宮にいる宮主が私兵を芙蓉館に差しむけたのを追跡したからだ。
「宮主さまが捕えようと追っている者が何者かと来てみれば」
芙蓉館の用心棒だという若造が軍事訓練を受けた北海氷宮の軍団相手に大立ち回りをしてみせてた。
「おい、それをかせ」
イーハンは配下から鞭を受け取る。
宮主の私兵や雪威団を蹴散らしていくジウォンめがけて三度、鞭を振りおろした。
「‼︎」
鞭は三度、ジウォンの背中に命中した。一度目で衝撃を与え、二度目でジウォンを崩し、三度目で短槍もろとも弾き飛ばした。
背後から襲ったあまりの痛みに崩れたが、なんとか持ち直し、転がっていた太刀を構えると目の前に見覚えのある顔がそこにあった。
ハクによく似た顔貌はジウォンにとって見慣れたものだったが、現れたのは、あどけない少年ではなく、精悍な成熟した大人の男だった。
イーハンのアンバーの瞳がジウォンを映した。
ただひとなら気にとめたりはしない。だがイーハンには見覚えがあった。
いつか、ビョルンの隣に付き従っていた若者は短槍一つで宮主の私兵と雪威団30人のうち、23人を下し、叩きのめした。
「お前、ソル・ビョルンのなんだ?」
ハクを思わせる顔だが眼光は鋭く、厳しく問い詰められジウォンは戸惑いながら答えた。
「え?師父は叔父だけど…」
イーハンは眼を細める。
ソル・ビョルンには兄がいた。
ソル・ジンアという、北海氷宮最強の将軍だった兄が。
「なぁ、太師。私の記憶が間違っていなければ、ソル・ジンア将軍には子がひとりいたな」
イーハンの瞳の奥が鋭く、冷たく底光りする。
(兄君の狙いはこれだったか。ナムグン家の血を引く私の子を殺して、ソル将軍の子を捕縛し、配下にしようとした)
イーハンの後ろに控えていた太師がうなづく。
「ええ」
「確か、名は。そうだ、ソル・ジウォンと言ったか」
イーハンの冷えた双眸はジウォンをとらえたままだ。
ジウォンは酸素に溺れた陸の魚のように動けないでいた。
ソル……、ソル。どこかで聞いた名前だ。
(確か、ハクの一族を滅門させた……まさか)
「ソル?わたしに姓があるの?」
狼狽するジウォンにいちいちイーハンはとりあったりしない。すでにイーハンの瞳はジウォンをとらえてはいなかった。ハクに似ているがまるで違う男は何かを探しに行ってしまう。
「それより、ハクは?ハクはどこにいるんだ?」
イーハンが行ってしまうと、太師は冷たく言い放った。
「そこの用心棒をとらえよ」
状況を飲み込めず呆然と立っていたジウォンは後ろから足蹴りされ、膝をついた。
衝撃で手放してしまった太刀は床に落ちるとジウォンの手のどどかない距離に蹴飛ばされた。
太師は雪威団に命じる。
「ソル氏残党の生き残りだ。ひっ捕えよ!」