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【連載小説】雪舞心計6/狼煙 ハラン


 墨のにおいでハランは目を覚ました。あたりには文机と筆はそのままに、書き散らした紙が散乱していて、足の踏み場はない。
 いつのまにかその上に大の字に仰向けになっていた。どうやら春眠をむさぼっていたらしい。

「うわ、すごいことになってる。ちょっとお館さま。勉学に励まれるのはかまいませんが、誰が片づけると思ってるんですー⁉︎

 しばらくハランは身を横たえたまま心地よいうたたねを決め込もうとしたが、思わぬ邪魔が入った。

「あー、うるさい。さわがしいなぁ、もう」

 ウルは手荷物を置き、手際よく、ハランが散らかした木簡やら本やら紙やらをまとめては片づけていく。

 ハランは髪を整えもせず、あくびをしていた。ふいに、ウルが置いた手荷物が目に入る。

「ウル、これは?」

「ああ、買い出しに行ったら彩衣坊のおばさんがくれたんです。これ、ハラン嬢に似合うんじゃないかって」

「私に?なんだか派手だなぁ」

 手荷物をほどくと、ただの外行き用の服にしては華美な羽織が入っていた。

「うん。ほら、郡主さまのお子さまの誕生を祝う祝賀が二月後に延びたでしょう。貴族の方々が彩衣坊につめよって、高級な糸をたくさん仕入れてるんですって。余った糸で織ったって聞きましたよ」

「あぁ、どおりで。宴会用ね」

 ハランは大きなあくびをした。

 貴人の名を呼び捨てにするハランに書物をもとの位置に戻していたウルはギョッとした。

 側仕えに慣れて、気軽に話せる仲になったが、ハランは自分とそう変わらない年頃で土地といくつかの館を所有していた。ここは、そのいくつかあるうちの館の一つだ。

 聞くところによると、彼女は由緒正しい古くから続く名家の出らしい。

 だがどの程度名の知れているお家なのかとか、そんなことは庶民のウルには関係のないことだった。
 ウルにとって大事なのは出仕する館が良い職場かどうかと、仕える主人が良い主人かどうかだ。
 ハランはウルにとっていい主人だった。粗相をしてもガミガミ叱られることはないし、同年代ということで、軽口をたたける間柄だ。

 この館は静かで、噂話ができるような同僚がいない(館にいるのは主人のハランと、側仕えのウルだけだ)のはもの足りないが、厳しいしきたりや罰則もなければ、神経をすり減らしてくるお局もいない。

「いいなぁー。公子さまのお誕生会の宴ってどんなに煌びやかなんだろう」
「公子さまっていったって、齢三つの幼児だし、そんなたいそうなものでもないだろうけど」

(みんなタサラ公子を理由に騒ぎたいだけだ。もちろん貴族の宴会なので腹の探り合いになるだろうが)

 ハランはひとりごちたが、ウルには、上流階級の宴会がどんなものなのか、想像もつかない。庶民には一生縁のない宴席だ。
 書物の片づけが終われば次は衣服だ。寝起きのハランのとなりで、まだほどいていないふろしきをほどいていくと、やはり庶民が一生働いても袖を通すことはないであろう衣装が出てくる。

「見てください、この見事な打掛け!おばさんとこの息子、絶対お館さまに気がありますよねー」

 客の呼び込みは看板女将である商団主の仕事だが、はたを織り、刺繍を施すのは手先の器用な彼女の息子の仕事だ。
 白地の布地に刺繍された紅色の梅の花が儚い恋心をうつすようだ。
 ハランにはそんなことはどうでもいいようで、「おや、もう紙がない」とどこ吹く風だ。

「お館さま~。勉学もいいですが、たまには紙と筆以外も買いに行きましょうよ~」

 長い冬が終わり、やっと心地よい春風が花びらを散らす季節になったのだ。
 少し考えてハランが言った。

「いいね」

 ハランは戸棚からしばらく使っていなかった扇子をとりだした。

「ちょうど市に用事ができたし、春にあわせて、ウルも新しい服を買いに行こう」




 その夜、離れでろうそくの灯りをたよりに読書をしていると、ウルの皿を割る音と、金切り声が聞こえた。

(さわがしい子だ。この上、幽霊でも見たと言ったらただじゃおかない)

 ハランは襦袢の上になにも羽織らないまま戸を開けた。

「ウル!大きな声をだして、どうした」

「お館さま!」

 ウルの足元に大量の血と、深手を負った男が倒れこんでいた。ハランは男のもとに駆け寄った。

「お前…、血が!何があった⁉いや、しゃべるな、傷にさわる」

 男はハランの肩を血まみれの手でなんとかつかみ、震える唇から声を発した。

「うう…っ。水を…。ハラン…さま……?急ぎ、王宮へ…。父君の……、宮…しゅ…亡くな、られ」

 そこまで言うと男は吐血した。

「え、え?なにか言ってる。なんて言ってるの?」

 ウルはすっかり動転していた。これほどの人体の損傷も大量の血も見るのははじめてだ。

「しゃべるな!動くんじゃない、傷がひらくぞ」

 ハランは吐血する男の傷口を手でおさえた。その間にもどくどくとなまぬるい血が身体からあふれてくる。

「お、お医者さまを!お医者さまを呼んできます!」

 動揺して今にも館を飛び出そうとするウルをハランが呼び止める。

「ウル!慌てず、湯と、火で炙った懐剣をここへ。それから布だ!止血しなければ」

 ハランの声でわずかに正気を取り戻し、ウルはうなづいて厨房のある母屋へ駆け出した。
 男はぜえぜえと苦しそうに胸で呼吸していたが次第に息をつげなくなっていた。
 出血が多すぎる。刺し傷に、吐血。肺をやられているのかもしれない。

「ハラ…さま……、急ぎ…、宮へ行っ……宮主さ…が、殺さ……れ」
 止血しても、間に合わないだろう。血を失いすぎて、助からない。

「お館さま!湯と、布と、懐剣をお持ちしました!」

 もどってきたウルが叫ぶがハランの肩をつかんでいた男の腕がだらりと力をなくした。
 ハランはウルを見て一度だけ首をふる。
 あたりは時間が止まったように静かだった。
 時がとまり、音が消滅した世界に投げ出されたように静まりかえっていた。
 時を動かしたのはハランだった。ハランは立ち上がり、服についた土や木の葉をはらった。

「ウル。もどって寝よう」

「あの、あの人は」

「放っておこう」

 ハランはウルを一瞥しただけで母屋へ歩いて行ってしまった。
 言いたいことや聞いておきたいことがたくさんあった。
 死んでしまった男は何者なのか、何が起きているのか。
 あの男は死ぬ間際にハランに何か言っていた。なんと言っていたのか。
 けれど経験したこともないような疲労感が押し寄せてきてウルは主人のあとを追うだけでなにも聞けなかった。




 翌日、ウルはハランに伴われて手荷物をまとめ、館を出た。
 ハランは自身が所有する別の邸宅へ移ることにしたのだ。
 男の遺体は文字通り放っておかれた
 ハランがふれなかったので、ウルも聞くに聞けなかったが館を出て道中、ハランのほうから教えてくれた。

「あの男、多分、官人だと思うんだ。うちは毎年税をたっぷりを納税させられてるし、わざわざこちらから役所へ申告しに出向かなくても、必要なら向こうから事情聴取に来ると思う。来たとしても話せることなんてほとんどないし、いずれにしろ私たちができることはほとんどない」

「あの人、亡くなる前、何か言おうとしてませんでした?」

 ハランはウルには悟られぬよう、口の中で昨夜、死にかけの男の、とぎれとぎれの言葉をつなぐ。

《ハランさま、急ぎ、宮城へ行ってください。父君の、宮主さまが》

「さぁ。うめき声と水、までは聞き取れたけど、それ以外はよく聞き取れなかった。胸にけがを負ってるのにしゃべらせるわけにもいかないし」

 ハランはそれとなく、ごく自然にとぼけた。
 男が命がけで伝えようとしたことはウルにとっても、また、ハラン自身にとっても知る必要のないことだとハランは断じた。
 市井(世の中)では無知でいるほうが生きやすいのだ。

(面倒ごとはごめんだ)

「暗い話はおしまいだ。こんなに気持ちよく晴れて、春風も吹いてるのになぜほのぐらい話をしなくてはならない。私たちにうしろぐらいことはないんだ。
 街へ出たら市へ寄ろう。
 ウルに春服をしつらえなきゃいけないし、私も用事ができた」

「そういえば、お館さまの用事って?」

 下女は主人に何も問わずついていくことを作法として最初に教わるが、ウルがみるに、ハランはそこまで狭量な主人でもなかった。
 そして彼女はほんの少し、好奇心が旺盛だった。

「うん、小物をね。手直ししたくて」

「小物?」

 ハランは手に持った扇子を広げた。
 風雅な代物で一級品であることが伺い知れるが絵が薄れ骨が傷んでいた。

「もともと母のものだったんだけど、しまい込んでしばらく使ってなかったからか少し開きづらくてね」

「お館さまのお母さんなら、さぞ別嬪だったんでしょうね」

 軽口を叩きながら歩き、街へ入ると、客通りの多い敷地を陣取っている大店が真っ先に目に飛び込んでくる。彩衣坊だ。

「あら、ハラン嬢!ようこそおいでなさいました。さぁさ、みってってくださいな」

 街は人通りも多いというのに、彩衣坊の女将はハランをみつけるやいなやほうきを片手に手をふり、屋内に招き入れるとぞくぞくと品物を並べた。

「淡い色合いの小袖が今年のはやりですのよ。ほら、この薄桃色なんてどうです?」

「良い色だね。白梅を刺繍して散らすのもいいかもしれない。だけど、この色合いはわたしが袖を通すよりもウルの方が似合いそうだ」

 並べられた品々にウルは興奮気味だ。

「お館さま、かんざしや紙紐もありますよ!」

「ハラン嬢はご婦人方のように髪を結い上げないのかい。ほら、この赤い髪紐なんて映えそうだ」

 女将はハランの髪に赤い髪紐をあてた。ウルも女将もため息をつく。
 ハランの長い黒髪に赤は本当によく映えた。

「髪を高く結い上げると頭痛がするし、着飾るのはウルにゆずるよ。ウル、好きなものを選んでいい。それから女将さん、贈りものをありがとう。今日はウルの服を見に来たんだ。私は、行くところがあってね。そのあいだにウルにいろいろ見せてやってください」

 ハランは衣服屋を出ると、街角にある鍛冶屋へ足を運んだ。





 ハランとウルは買い出しをひと通り終え、宿をとった。
 寝床に手荷物を置くと寝台が軋む音がした。
 官有地にある民宿だったが店主は別の商売の片手間に部屋を貸し出しているようで寂れていて、ところどころ管理が行き届いていないようだった。
 庭も見栄えを気にして手入れされている様子はなく、鶏が2、3匹放し飼いにされている。
 下女のウルは粗末な環境に慣れている。家具が少しほこりをかぶっているぐらいどうということはなかった。
 ハランならばもっと眺めの良い部屋を用意できるような宿をとれたはずだが、ウルからしてハランも質素な部屋を気にした様子はない。主人は細かいことは気にしない性分なのだ。
 客桟は二階が客間になっており、一階に食事処があった。
 食事処の卓につき、いくつか料理を注文するとしばらくして愛想が良いとは言えない給仕が食事を運んでくる。
 白菜と鶏むね肉を煮込んだ羹と適度に薬味をきかせた粥、だし巻き卵、野菜炒めが卓に並べられた。
 湖南料理によくある香辛料がふんだんに使われた料理ではなく、口当たりが良く、消化にも良さそうな食事だ。
 口に含んだ粥が食道を通り胃に届くのを感じてウルは心身が緩むのを感じた。
 ハランは小さな口で羹を啜っていた。

「安宿ですけど、料理の腕は確かですね」

「だしが良くきいてる。料理人は東瀛の方で修行したのかも」

「とうえい?」

「東方の地という意味だよ」

 厨房から男がひとり出てきて、ハランとウルと自分の前に玻璃でできた小ぶりな器をおいた。

「これは?」

「おすそわけだ」

 料理人と思しき男が玻璃の器に清酒を溢れんばかりに注いだ。

「ほんとうは魚をお客人にはふるまおうと思っていたんだがね。焼き魚か魚の煮付けか。。だが降ろせたのは酒だけだった」

 男は並べた三つの小ぶりな玻璃の器のうちの一つを煽った。

「天氷月だ。北海の雪解け水でつくる酒だよ。あちらは魚と酒が美味い。一口飲んでみな」

 料理人の男にならって、ハランも唇に清酒をつけた。

「うわこれ、美味しい!」

 興奮気味にウルが言った。

「その辺にしときな、嬢ちゃん。口当たりが良いがかなり強い酒だから」

 男がウルとハランが玻璃の器の酒を飲み干したのを見届けてから器を2人から遠ざけた。

「南は茶で客をもてなすが、北は寒いからな。酒で身体を温めるんだよ。なかでも天氷月は北海の銘酒だ。俺も初めて飲んだ時は衝撃だった。だが、これも飲み納めかな」

 男は玻璃の器の中で雫になっていた天氷月を眺めながら言った。

「なにかあったのか?」

 ハランが男に訊いた。

「さぁ。宮主さまが亡くなったらしいが。数日したら国葬のために店に卸す前に衣類にしろ食材にしろ、宮城に納められるらしい」

「宮主さまが?国葬?」

 ハランが怪訝な顔をした。

「北海氷宮か、南都紅宮か。どちらの宮主さまだ」

「さあ。お上の事情なんて知らないが南のお方じゃないかな。食材を卸してくれた商人から聞いた話だよ」

 舌を楽しませる料理や銘酒にウルはハランが怪訝な表情を深めたことに気づかなかった。
 後世の歴史家たちによって、南北時代と呼ばれるこの時代、北海氷宮と南都紅宮の両勢力は互いにけん制しあい、緊張状態が続いていた。
 そこに宮主崩御の知らせがすでに市井に広がっている。
 南都紅宮の宮主不在のすきをついて北海氷宮が干渉しかねない。
 かろうじて保っていたこの危うい両勢力の均衡が崩れてしまう。
 南都紅宮の宮主が亡くなったことが事実だとして、国葬と触れまわり、それを宮外に示す利点が南都紅宮にはない。

(南都紅宮でなにかが起きている)

 タサラ公子はまだ齢三つ。南都紅宮は後継者を定めていない。しばらく宮内は荒れるだろう。

(ご愁傷さまなことで)

 男の言うように、市井の者にはお上の事情など知ったことではない。
 ハランは男のそばにあった酒瓶を見た。

「天氷月。北海の銘酒だといったな。あと2,3かめほど売ってくれない?私もウルも気に入ったよ」

「おうよ。お嬢、見かけによらず、お大尽だねぇ。銘酒とあって、ちょいと高級品だがそうこなくちゃな。ちょっと待ってな、持ってくるから」

「試飲させて、買わせるなんて、商売上手がいたものですね」

 主人の思わぬ羽振りのよさに皮肉を言いながらもウルはご機嫌だった。
 男はいそいそと酒蔵へ向かう。客足が減ってしばらく店じまいかと嘆いていたが思わぬ臨時収入だ。
 食材が手に入りづらくなり、北も南も兵士のための兵糧として食材を買いとり備えているという噂だ。
 男は南北の戦争でひと儲けしてやろうと思うほど商魂たくましくはなかった。ただ、戦禍に備えて蓄えておこうと考えていた。
 ハランとウルは男から天氷月を受けとり、男は酒蔵に寝かせてあった酒を銭にかえた。

「まいどあり」

 銭を受け取り笑顔を浮かべる男の眼が暗くなる。

(人殺しは貴族さまの仕事だ。庶民には関係のないことだ)

 男は厨房に戻っていった。






 春服を買い、美食で腹は満たされ、銘酒まで弾んでもらえた。主人のハランもご機嫌でウルも浮かれていた。

「そういえば、ウル、彩衣坊で、良い服は見つかった?」

 ウルは、にまっと笑い、まだ糊付けで少しかたい上着を羽織った。
 思ったよりも自分は浮かれているみたいだ。
 衣装がよく見えるように両手を広げてくるりと一周まわってみせる。
 若い年頃の娘が好みそうな淡い色合いが今年の流行らしい。

「どうです?」

「翡翠色がよく似合っている」

 えへへ、と笑いながらウルは新しい着物を脱いで大事そうに畳んだ。

「それより見ました?あの彩衣坊の息子。女将の陰に隠れて、お館さまの方をちらちらと」

 こんな楽しい晩のお供には恋話しかない。
 ウルは年頃の、少しばかり好奇心旺盛な娘だった。
 ハランにはそんなことはどうでもいいようで、「そうだっけ?」とどこ吹く風だ。

「いいなぁー。私にも恋愛の気運、分けてくださいよー」

「ふむ。恋愛の気運ねぇ」

 どうやら、ウルは、彩衣坊の息子に気があるらしい。とハランは少し違った方向へ勘違いした。

「じゃあ、服をとりかえてみる?」

 ハランは以前、ウルが彩衣坊の息子が想い人を思いながら織ったと言っていた着物を差しだした。

「え!いいんですか」

 もともとハランのためにしつらえられた着物なので上等な布地をふんだんに使った高級品だ。

「うん。着がえてきな。わたしはひと風呂浴びてくる」

 ウルは着物を受けとって着がえるために屏風のむこうの別室へ消えた。


 しばらくしても、ウルは着がえた姿をハランに見せなかった。
 浮かれてよく回る口で駄弁りながら見せにきそうなものなのに、ハランが風呂を済ませた後も、ウルは現れなかった。
 いつもハランの身支度を手伝っているので、着付け方がわからないということはなさそうだが、着付けに戸惑っているのだろうか。

「ウル?」

 声をかけても屛風越しの部屋からは声がない。

 どうもおかしい。静かすぎる。
 ハランは屛風を押しのけ、客間につながる部屋を見た。

「ウル!!」

 返事はなかった。
 部屋は音が消滅したかのように静まり返っていた。
 ただ、床に白地の布地に紅色の梅が刺繍された着物を着こんだ娘が泡を吹いて苦しそうに胸を両の手でつかみ、転がっていた。
 目は見開かれ天井を見ているようで焦点があっていない。指にもその顔にもすでに血の気がない。
 手首からウルの薄い胸元へハランは指をやる。すでに脈も心臓も動いていない。

(毒⁉)

 ハランは天氷月に視線を投げる。
 だが酒ならば料理人の男もあおっているし、なによりもハラン自身もウルと同じ量を口にしている。
 短時間で人を死に至らしめる劇薬ならばすぐに解毒薬をのまなければ間に合わないし、酒をすすめた男はしばらくハランたちと話していた。
 同じく酒を口にしたハランにはなんの症状も出ていない。

 (毒は酒じゃない。とすると)

 はっとしてハランは遺体から飛びのいた。

 (着物⁉)

 もともと、ハランのためにしつらえられたという着物。
 冷たくなったウルは小袖から打掛に至るまでしっかりとその着物を着こんでいる。
 ハランは立ち尽くした。
 窓から風が入ってきているはずなのに音も匂いもなく、すべての感覚が遠ざかるような気がする。
 視界の端で何かが動いた気がした。二階なので見えるのは建物の屋根瓦ばかりのはずだが恐ろしいほど月が明るかった。

(獣?)

 そんなはずはない、と思い直した次の瞬間、ハランはとっさに押しのけた屏風に身を隠した。
 左手でさっと屏風をひろげ、身を隠しながら右手はもってきていた手荷物をまさぐり、扇子だけ取り出して、小さく畳んであった服を屏風の外へ投げた。
 宙へ投げ出された服は窓の外から飛んできた矢をまともに受け、窓から飛び込んできた何者かが斬りかかったが女ものの服は誰も着ていない。

 (曲者!!)

 刀を空振りした男の隙をついて屏風からハランは身を乗り出し、男の首から腕の腱を狙って大きく扇子をふりおろした。


 はたから見れば、妙齢の女が広げた扇子を旋回させ、舞を踊っているように見える。
 女が扇を黒づくめの男に叩きつけ、いくらか刺客に衝撃をあたえたようだ。
 刺客を追ってきたヒオクは窓から部屋の中に飛び移り、黒づくめの男と二、三手、剣を打ち鳴らす。

(変だな、刺客のくせに手ごたえがない)

 ヒオクは刺客の剣を握る腕から血があふれてることに目をとめた。

(腱を切られてる?)

 ヒオクはハランが手にした扇子を一瞥した。 

(扇子に仕込み刀か。やるじゃねぇの)

「何者だ!」

「隠れてろ。助太刀してやる」

「気をつけろ!そいつ一人だけじゃない。外に弓兵がいる」

 ヒオクは目の前の刺客の心臓を剣で一突きでつらぬき、そのまま飛んできた矢を剣で串刺しにした刺客で受け止める。

「男の弓矢をこちらへ!」

 ヒオクは串刺しにした黒づくめの男から弓を奪いハランに投げた。
 ハランは服に刺さった矢を受け取った弓につがえ、弓兵を狙った。
 ハランが放った矢は弓兵に致命傷を負わせられたかまでは定かではないが屋根からふりおとすことには成功したらしい。

(ふうん。あの女、夜目がきくのか)

 また部屋に静寂がもどった。
 はあっ、とハランは息を吐いた。
 ヒオクは棚に置かれた酒瓶を見つける。

「お。酒か?」

「天氷月だ。飲んでいいぞ」

「そうか。んじゃ、遠慮なく」

 ヒオクは酒瓶をひっくりかえし、かぶかぶとのどに流しこんだ。ハランは何も言わず肩で息をしていた。

「おいおい、気を抜いていいのか。俺もあんたを狙いにきた刺客かもしれない」

 余裕たっぷりにそう言ってのけるヒオクをハランがのろのろと視線をうつす。

「お前こそ。そっちに転がってる娘の死体が目に入らないのか。毒殺だ。先ほど天氷月をいただいたんだが、今はこうして冷たくなっている。酒に毒が仕込んであるとなぜ考えない」

「うわ。怖いこと言う女だな。下女を殺す利点があんたにあるとは思えないけど」

「下女?ふつう、上等な着物を着ている方が貴族でそうでない方が従者だ」

 この場合、上等な着物を着ているのはハランではなく遺体となって冷たくなり転がっている娘、ウルの方だ。
 ハランのほうはあとは床について寝るだけだったので襦袢を着ているだけだ。

「貴族の娘、ウルを狙って側仕えの女中が毒殺し、口止めに女中が刺客に殺害される、とよむほうが状況にあうだろう」

「それなら繰りかえすようだが、俺もあんたを狙いにきた刺客かもしれない。あんた、おれが何者なのか訊かないのか」

「敵の敵は、味方」

 面倒な、とでも言いたげにハランは短く言葉をきった。
 実際、わけもわからず襲撃にあい、殺されそうになった。
 口から言葉を発することさえおっくうだった。目の前の剣客にも大して興味もなかった。

「お前こそ、なぜわたしが狙われているのか訊かない?」

(私が何者で、私を狙った奴が何なのかをこいつは知っているからだろう)

 ハランは舌打ちした。
 誰に、なぜ狙われているのか、どうしてこんな状況になっているのかハランはつかめずにいるというのに。

「あんたが貴族で、あんたを邪魔に思う奴がいるからだろ」

 こともなげにヒオクは言った。

「ひとつ、あんたは弓をひき、見事に命中させた。
 貴族ってのは、身体ができあがる前から馬を乗り回して狩りと称し、犬やら鳥やらを追いまわして馬術や弓術を覚えるんだろ。
 あんたは弓を引きなれている。だからあんたが貴族だと思った。
 ふたつ、高貴な女は従者もつけずにおいそれと外出しない。
 この寂れた宿に客は二人しかいない。一人はあんたでもう一人はそっちの娘だ。あんたが貴族なら、下女はあちらだろう。
 みっつ、下女は主人より先に湯あみをしない」

 ハランは風呂あがりでまだ湿った髪をかきあげた。

「何か羽織れよ。ここを出るぞ。まだ夜は冷える」

「服だ」

「?」

「毒は着物に付着している。今着ているものは持ってきたものだから大丈夫だけど」

 ヒオクは冷たくなり転がされたままになっているウルの開いたままの目を閉じてやる。

(なるほど。あの娘はこのやたら頭のキレる貴族の女の身代わりになったのか)

 ハランはおもむろに手荷物のなかから衣服屋で買ったものともともともってきていたものを振り分け、買ったものは処分することにした。
 火鉢に服をつぎつぎと投げ込み火をつける。
 多くはハランのものではなく、ウルが買い求めたものだった。
 ハランは衣を焼く緋色と色とりどりの衣装たちが灰になるのを見届けた。

「それから、天氷月に毒は入っていない。たぶん」

「たぶんかよ」

 天氷月を飲んだもののうち、死んだのはウルひとりで、ハランもヒオクもこれといった症状は出ていなかった。
 宿を出る途中、料理人の男のいびきがきこえてきた。男のほうもなんともないのだろう。
 ハランはヒオクに持たせていた酒瓶をひとつ手に取り、口をつけた。





 ふたりはどこへ向かうともなくしばらく歩いた。
 ヒオクはなにも話さない女に南都紅宮の主が暗殺されたこと、そのことで南は混乱し、北も浮き足立っていること、襲いかかってきた刺客は南北どちらの可能性もあることを教えた。
 ヒオクは女の方をうかがう。

(女ってのは、もっと感情のまましゃべる生き物なんじゃないのか?)

 女の方は相変わらずなにも話そうとしなかった。
 人気のない雑木林に入るとヒオクは落ち葉や枝を持ってきて火をつけた。
 火が落ち葉を燃やすと女はヒオクの隣におもむろに腰を落とした。
 いっこうに話そうとはしなかったが、持っていた酒をヒオクに差しだす。

(酒を温めろ、てことかな?)

 南は茶で客をもてなすが、北では酒で身体を温める。

「なぁ。あんた、もしかして俺がどこの何者かだいたい見当ついてたりする?」

 なに言いだすんだ、この男。という顔をしてハランはあてずっぽうに言ってみることにした。

「さぁ。天氷月をなんのためらいもなく口にしたことからして、北海氷宮の者とか?」

「そうだよ」

 ハランはヒオクを怪訝な顔をして見た。

「北海氷宮の剣客、ヒオクという。以後、お見知りおきを」

「ハランだ。出身は紅慶州」

 北海氷宮と聞いて動じた様子を見せないハランにヒオクは驚いた。

「……北海氷宮だそ。南とはずいぶん前から対立してる。さっきの刺客が北の者か南の者かわからないのに、身構えないのか」

「関係ない」

(北海氷宮がなんだ)

 目の前の男が敵でも味方でもハランはいっこうにかまわなかった。

(北海氷宮が敵というなら、敵で敵を撃ってやる)


 ヒオクは考えていた。
 貴族の女は従者もつけずに外を出歩いたりしない。
 通常なら護衛として男を雇う。だがこの女に武術の心得があるのなら必ずしも必要ではない。

(もし剣を握らせたら、けっこうつかえるんじゃないか?)

 あの緊迫した状況で自分をつけ狙う敵が複数人いることを把握し、あまつさえ、状況を利用して、狙われた貴族の女は自分ではない、天氷月は毒入りかもしれないぞ、となかば脅しながらヒオクを欺こうとした。

(何者なんだよ、この女)

「剣術を習ったことはあるか?」

「ナムグン家の出だから、まぁ多少は」

 今度こそヒオクは目を剥いた。

(紅慶ナムグン氏⁉︎)

 武家のなかで有名なのは北のソル氏一族だがナムグン世家も古今随一の剣客の名門だ。
 そして、その血筋は南北どちらの宮主宗家にも受け継がれている。
 天下に皇帝はなく、皇族もないが、ナムグン家が南北を統べることができれば間違いなく金枝玉葉の一族だった。
 北海氷宮や南都紅宮が成立する前から地上の栄枯盛衰を見届けた太古の時代から続く一族。
 ヒオクはなけなしの座学での知識をたどる。
 子が父親の姓を継ぐことが一般的な北とは違い、ここ、南都紅宮の主が治める南の土地では母親の姓を名乗る。

「あんた、ナムグン・ハランといったか。母親はナムグン世家か」

 ぴくり、とハランはここへきてほとんど初めて反応した。

 《ナムグン・カジン》。

 それがハランの母親の名前だった。
 南に鎮座する南都紅宮の女主人。
 権謀術数に長け、あまたの君侯の頂点に君臨する。
 父が殺されたなら、今、最も疑わしい人物だ。

(なんのために?)

 父を廃し、南都紅宮を真に掌握するために?
 それから国葬だ。

(もしかして、私を呼び寄せるために?)

 南都紅宮での異変を知らしめる、狼煙だったとしたら。
 焚き木の炎はハランを試すように揺れる。

 (南都紅宮宮主は南の王だ)

 南都紅宮なんか知ったことか。
 継ぎたい奴が継げばいい。
 宗家とは無縁の場所で、静かで穏やかな暮らしをさせてくれるなら、宮主の椅子なんてくれてやる。
 だが刺客をよこしてくるとは。
 ハランは、館を出る前の、南都紅宮に向かうよう伝え、危機が迫っていることを知らせた瀕死の男を思い出す。
 生きたければ王位を。さもなくば死を。

「夜が明けたら、南都へ向かう」

 このまま座していても殺されるのを待つだけだ。
 それならば、立ち向かったほうがいい。
 ヒオクは酒をぐっと飲み干した。 
 面白いことになってきた。
「まさか南都紅宮の姫宮と逃避行とは」
 それも、絶世の美少女ときた。
「逃避行?」
「違うのですか?」
「そんなんじゃない。堂々と、正面から乗り込むんだよ」

 南都へ向かわなければならない。
 ハランの声は炎に吸い込まれる。だが、目には確かな力が宿っていた。

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