【連載小説】奴婢と賎民(1)(雪舞心計11)ジウォン/トアハ
炭を運び出していた奴婢がひとり、男にど突かれ炭ごと地面に転がった。
「団主どの、あの者は一体なにをしでかしたのです?」
奴婢には様々な者がいる。借金苦に身分を売った者、罪を犯した者、またその家族。控えていたヒオクが言った。
「罪人の子」
「しぶとい奴め。ぶたれても、呻き声ひとつあげぬとは」
男にとって、奴婢に憂さ晴らしで殴る蹴るといった虐待をくわえるのは日常茶飯事だった。
ジウォンがどこから来て何者なのかは伏せられていたが、ジウォンをいたぶれば、どういうわけか権力者にいい顔ができた。
たいがいの奴婢は体を丸めて許しを請うものだが、ジウォンは理不尽に痛みつけられても抵抗しようとしなかった。
抵抗すれば、暴力はさらにエスカレートするからだ。
ジウォンは身を小さくして平伏したまま嵐がすぎるのを待った。
通りがかった人は言う。
「あんな姿になっても人でいたいものかね。哀れなものだなあ」
奴婢は炭で煤だらけになり、加えて力まかせに暴行を加えられるので、髪はざんばらで汚れていて、みずぼらしい身なりをしていた
打たれ強いのか、奴婢を足蹴にしていた男の方が参ってしまったらしい。
男が奴婢をいたぶるのに飽きて行ってしまうと、ようやくジウォンがのろのろと身を起こす。散らかった炭を集め、歩きだした。
12年前。南楽坊。
妓楼のすみで雑巾がけをしていた子どもは時々酔っ払いや質の悪い客たちの鬱憤の吐け口になった。
子どもは男の子だった。
当時、色を売る娼館だった南楽坊では男子は商品にならない。
ただいるだけで穀潰しなのだ。
けれど、一世を風靡した遊女の子どもとあって、可愛らしい顔はしていたので花街の薄暗い路地に連れ込まれることがたびたびあった。
「はっ!」
「師兄?」
寝苦しさに目を覚ますと、ハクが心配そうにのぞきこんでいた。
「朝餉の用意もできてますし、起こしに行こうと思っていたのです」
「ああ。失礼を。寝過ごしてしまいましたか?」
「いいえ。あの、大丈夫ですか?うなされていましたよ」
トアハは身体を起こすと夏でもないのにびっしょりと汗をかいていた。
「嫌な夢を見たのです。というより、昔を思い出したのかな」
「昔?」
「南楽坊にいた頃の」
ハクは表情をこわばらせた。南楽坊は今でこそ芸者を呼べる飲食店、もしくは旅館という性格が強いが、ほんの数年前は花街の中心であり、妓楼だった。
そうだ。
自分は運良く、ビョルンとジウォンに拾われ、今は千夏宮に身を寄せているが、身寄りのない者は娼館に売られていく者だって珍しくない。
「なに。身売りの経験はありませんよ」
トアハは年上の師兄らしく小さく笑ってみせる。
「昔の話だし、あんな場所でも生まれ育った場所ですからたまに足を運ぶぐらいには吹っ切れてる」
「二胡、お好きですもんね」
「また弾いてくれるのでしょう?」
「ええ。でも先に朝餉です」
トアハは髪を後ろに束ねた。
「髪、伸びましたね」
「あなたは背が伸びた」
ハクは時間ができると太刀や短槍を振った。
彼もまた彼の師や父と同じ武人の道を進んでいくうち、身体ができてきた。
様変わりしたのは体つきだけではない。
声変わりを遂げ、初めて出会った頃とは随分印象も変わった。
若い師弟がたくましく成長するのは師兄として喜ばしかった。
朝、起き抜けに、髪が汗を吸ったのかどうにも頭皮がかゆかった。
髪を気にするうちに枝毛を見つける。
美形の師弟と彼が作った朝食で忘れていたが、今朝の夢といい、どうにも今日は嫌なものが目についた。
竹簡を片手に、神経質にガシガシと頭を掻きむしっていると掻きむしっている方の手に手が触れられ、止められた。
「髪、乱れています。それに、そんなに掻いたら血がでます。掻かないで」
「ツェラン」
ふぅ、と息をついてツェランは小刀と布がかかった桶を持った。
「それは?」
「見ての通り、小刀と櫛と水と香油です。大師兄、髪、切りそろえましょう」
「え」
ツェランはトアハを抱え、長椅子の肘掛けに頭がくるように寝かせて、トアハの後ろの回り込んだ。
布をトアハの目にかける。
「‼︎」
突然視界を遮られ、驚く師兄の心中などかまわず、ツェランはトアハの縛っていた髪紐を解き、手ぐしで髪をすきだした。
髪がツェランの指を通るのを感じ一瞬安堵したが、水音と小刀が鞘から抜かれる音がした。かつて花街で転がっていた賎民はもういないというのに、トアハは少し怯えた。
遮られた視界は暗く、闇しか見えない。そして背後には刃物を持つ男。
花街はいつも水が腐った匂いがしていた。
(まずい)
花街に転がる賎民は自分と同じ顔をしていてこちらを見ている。
「大師兄?なんで息をとめてるんだ」
過去にひっぱられそうになったトアハはツェランの一声で引き戻された。
「……別に。驚いただけだ。なぜ目隠しをする」
「髪を水で少し濡らしたから顔にかからないように。眩しくないようならとるが」
トアハは当て布を顔から外したが見えたのは天井だけだ。ツェランの姿が見えない。
「おっと。動きなさんな」
思わず起きあがろうとした身体をツェランに押しもどされる。再び、天井。
(顔が見たい)
「……髪、そんなにみっともなかったか」
「いや。南都の大師兄はいつも皆の手本だ」
ツェランはいつも南の風に遊ばせているこの髪を触ってみたいと思っていた。
指でこぼれる髪を掬う。
しばらくツェランは髪をすいていた。トアハがその心地よさに慣れた頃、ツェランは櫛を置いた。
「ありがとう。手を煩わせた。夏になる前に整えないととは思っていたんだ」
「では褒美をいただいても?」
「ほ、褒美??」
トアハは振り返ると、ずい、とツェランは身を乗りだす。
「休暇をいただきたいのです。故郷の弟や友人に会いに行こうと思いまして」
雪解け水で川では水量が増していた。
ジウォンは川辺で手をすすぎ、てぬぐいを水に濡らして顔を拭いた。
てぬぐいを見ると煤に血が混じっていた。
蹴られた時に唇の端を切ったのだ。
思わずため息をつく。
北の地も厳しい冬をへて、春を迎えた。
しかし春とは名ばかりでまだまだ吐息は白かった。
去年の中秋節から三ヶ月経つ頃にはジウォンは歩けるようになっていたが、今度は雪と氷に南都への道を閉ざされてしまった。
ビョルンは死んでしまった。ハクの無事を確かめるには南都へ行かなければならないが、奴婢の行動は治安維持のため制限される。
逃亡したら、他の奴婢の多くに類が及ぶだろう。
雪解けの季節になっても、身分制度と罪の意識がジウォンの足を絡めとり動けなくしていた。
(ハクに会えない理由を探してるだけだろうか)
足の怪我、南都への路を閉ざす吹雪、奴婢の身分。ソル氏の血。
口の中は血の味がした。
ジウォンは懐に忍ばせてあった饅頭をかじった。
慢頭は蒸してから時間がたちすぎて硬くなり、さっき殴られて身を屈めたせいでおしつぶれていた。
(ハクと二度と会えなくても、無事なのを知ることさえできれば)
「‼︎」
ガチン、とジウォンは口の中で砂利を噛んだ。
蹴飛ばされて地面に転がった時に服に砂利が入って懐に忍ばせていた饅頭に混じってしまったらしい。
服を着替えるためジウォンは帯を解いた。