【連載小説】 媚薬(雪舞心計16)ツェラン×ハカン
ツェランは普段、トアハが寝起きしているという家の前で座り込んだ。
先ほどまでツェランの腕のなかで息を乱していたトアハは戸口一枚隔てたところにいた。
考えるだけで身体が火を吹きそうになるのをツェランはトアハの剣を抱きしめてぐっとこらえた。
気を抜いたら、煩悩で頭がいっぱいになる。
媚薬を口にしたのは師兄だというのに、きつめの蒸留酒を飲み干したような気分だった。
素質ありと判断されてから、ツェランは25年間、戦闘人形として生きていた。
人よりも感情の振れ幅が極端に少ないのだ。
色恋とは無縁の日々を送ってきたし、そんなものに焦がれ溺れるなんて愚者のすることだと思ってきた。
余興や遊びで女を口説いてみたり、そのように振る舞ってみることはあっても、あくまでままごとの領域を出ない。
心を本当に、まるごと持っていかれそうになる経験をしたことがなかった。
トアハを寝台に下ろした時、着物がはだけ、ジャスミンの芳香が情感を訴えている。汗が首筋から胸、腹筋へ伝うのが見えた。
感情が希薄なツェランから見てもひどく艶かしい。
トアハの肩を支えた時、普段は氷みたいに冷たい男がのぼせ上がり身体中が火照っているのを薄手の襦袢越しに感じ、ツェランはどうかなりそうだった。
意思や理性や思考力を焼ききれるような、自分が自分でなくなりそうな感覚に敵前逃亡するしかなかった。
師兄を介抱する余裕などなく、扉をきつく締め切った。
どれくらいこうしていただろうか?
南都の朝は夏のように早い。
あたりは朝日で明るく白み出していた。
人が近づいてくる気配に顔を上げると、夜中にツェランの前に現れた覆面の若い男がこちらに歩いてきていた。
男は仮面で目元から上を隠していた。
顔を隠しているのにどこか風情があって美しいと感じるのは竹林を背に歩いてくるからだろうか。
「トアハ兄さんは、なか?」
ハカンは家の前に座り込んでいたツェランに声をかけたが返答を待たずに戸を開ける。
「あ、おい....!」
「うわ、色っぽい」
襦袢がはだけ、汗だくになり、寝台から転げ落ちてしまったトアハの姿があった。
ハカンはツェランにはかまわず部屋のなかへ足をすすめ、トアハを介抱する。
ハカンはトアハが犯されていないことに安堵し、手際よく、襦袢を剥ぎとり、ツェランは思わず視線を外したが次の瞬間には腹が立ってくる。
別に女の裸を見るわけではないのだ。
なぜ自分が恥じらわなければならないのだろう。
その間にも、ハカンは水で濡らした布巾でトアハの肌を拭った。
「師兄。着替え、置いておきますから」
「ああ...ありがとう」
「気分は?」
「二日酔いみたいな....」
「ゆっくりでいいですから。着替えてる間、少し外しますね」
ハカンはツェランを伴って戸口を再び閉める。
「それ、トアハ兄さんの剣だろ。一晩中ここにいたのか?」
「ああ....。何者だ、あんた」
「名を聞くなら、まず自分から名乗るのが礼儀では?」
素顔も見せない男に礼儀を説かれるなんて心外だ。
ツェランはぶっきらぼうに答えた。
「ツェラン」
「ツェラン?」
「そうだ。ほら、名乗ったぞ」
「ナムグン・ハカン。千夏宮の用心棒です。ツェラン兄。どうぞよろしく」
だれがよろしくするか、とツェランは内心で吐き捨てるがそんなことはお構いなしにハカンは身を翻した。
「すまないが、朝餉の支度をしなくてはならないから、大師兄が着替え終わって出てきたら、付き添ってあげてくれ」
ハカンはそう言って竹林の道へひらりと消えてしまう。
再びツェランひとり残された。
ハカンと入れ替わりで、背後に現れたのはトアハだ。
呆然としていたツェランだったがあわてて足元がおぼつかないトアハを支えた。
(ふらふらじゃねぇか)
「あ....?ツェラン、か?お前、まだいたのか」
ツェランは寝ていなかった。
それに腹が空いていた。それはもう、腹と背中がくっついてもおかしくないほど空腹だった。
一晩くらい寝ていなくても、空腹でも倒れたりはしないが苛立ちを覚えた。
(ミシル、あの女。全部あの女のせいだ)
トアハは一歩歩くごとにふらつく。立っていられず座り込んだ。
「すまん、座る」
ツェランはため息をついてトアハの隣に座り込んだ。
「....どっと疲れた」
まさかの時間外労働に険悪な雰囲気のツェランをトアハがちらりと見る。
濡烏のような髪が徹夜の疲れを滲ませて重たく首筋にかかっている。
トアハは固唾を飲んだ。
(まだ薬が抜けきっていないのか?)
今は座り込んでいるが長身で肩幅が広く、実に男らしい男が隣にいた。
なんでこいつはあたりまえのように心に入ってくるくせに、戸を一枚隔てただけの部屋には入ってこなかったんだ?
トアハは昨晩、自分がどれほど無防備だったかも忘れてそんなことを思った。
ツェランがいい男だということに気づきつつあった。
トアハが食卓につけたのは、カジンやハランが朝食を終え、そば仕えがお茶を淹れようとしていた頃だ。
「遅くなりまして、申し訳ありません」
「おはようございます、師兄」
ツェランに支えらたトアハに一同は目を丸くした。
そう簡単に他人に弱みを見せないのが南都の大師兄だ。
ツェランは仮面の男を見つけるやいなや、トアハの手をひいて自分のそばへ寄せる。
(なんか、距離感が)
ハランはトアハとツェランを交互に見て唖然としてしまった。最後にはツェランに握られたトアハの手を凝視する。ついまじまじと重ねられた手を見てしまう。
石化したのはハランだけではない。
急須を傾けたまま、仮面のそば仕えは硬直していた。彼は、お茶が湯呑みから溢れてることに気づかなかった。
ただひとり、澄ました顔をしたカジンがコホン、と小さく咳払いした。
水面に水を打ったようにハランは視線を外し、仮面のそば仕えはわたわたと新しい湯呑みを用意した。
「ハカン、溢れてる。トアハ、そちらが」
「千夏宮への立ち入りを許可していただき、ありがとう存じます」
ツェランが頭を垂れる。
隣ではっとしたトアハが慌ててツェランのそばから離れた。
「大師兄はお送りしましたので、私は下がらせていただきます」
ツェランがそう言うとトアハはようやく何事もなかったかのように卓につき、湯呑みを口に運んだ。
カジンもさすがにいたたまれなくなって口を開く。
「....ハラン。なにしてる。師兄の湯呑みに茶を淹れておやり」
トアハはハッと気づいて空の湯呑みを置いたが手遅れだ。
ハカンは急須を片付けるため下がっているし、反射的にツェランを睨むが奴は素知らぬ顔をしていた。
ハランは湯呑みにお茶を注ぎながらまじまじと母カジンを見る。
(珍しく朝餉に同席したと思ったら)
カジンは終始、涼しい顔をしていた。