【連載小説】習字(雪舞心計13)ハク
南都紅宮外宮。
トアハに呼ばれたツェランは自分の目の前に置かれた文机と紙に首を傾げた。
「師兄、これは?」
「見ての通り、紙と筆と硯だが」
「ああ、お待ちを。すぐに墨をすります」
「いや、わたしがやる。お前は文机の前に座れ」
「え⁇」
トアハは手際よく墨を水に溶かして墨液をつくり、ツェランに筆を握らせ、自身も筆をとると紙の上に筆をすべらせた。
「詩の一節だ。書き写してみろ」
「えぇ….」
苦手な食べ物を食事に出された子どものような顔をして振り返ると、思っていたよりもすぐ後ろにトアハの顔があった。
思わぬ弱点を見つけて満足げにトアハが笑う。
予想外の近さに驚いてツェランは視線を外す。
「….!? ⁇ ⁇」
ツェランは顔が異常に熱くなるのを感じながら、わけもわからず筆を動かした。
つい、いろんな想像が頭をよぎってしまい、本当はそれどころではなかった。
ツェランはトアハの得意げな笑顔から目を背けていたが耳が熱をもって赤くなっていた。
トアハの気配はまだツェランのすぐ背後にあった。
しばらく筆を進めるツェランの様子を見て、トアハは立ち上がり、ツェランの前に座り直した。
ツェランは目の前に腰掛けたトアハを盗み見る。
同じ目線にトアハの長いまつ毛が伏せられている。
トアハがツェランの視線に気づくと、ツェランはあわてて視線を下げる。
ツェランの服の袖にトアハの袖が重なっているのが目に入った。
静かな空間のなかでふたりきりしかいない。
意思とは関係なく胸が熱くなり、慣れないのに不思議な多幸感がある。
トアハも筆をとりつつ目の前の男を眺めた。
(不思議だ)
ふだんは槍か刀を手にして大きく動くこの男が、筆を握り、紙を前にして困惑しながら写経をしている。
修練場で刀剣を交えるのとは違う集中力や適度な緊張感と静けさが心地いい。
トアハは懐から紙をとりだした。
ハクが書き起こしてトアハに渡したものだった。
「師兄。それは?」
「北の文字だ。最近習い始めたんだが、南の文字より画数が多くてな。どうにも上手く書けない」
顔も知らない奴が書いたものがトアハの胸であたためられていたと思うと無性に苛立ってくる。
他人が書いた書のとなりにトアハが文章を並べていくのをツェランはじっと見ていた。
南都紅宮内の最奥 千夏宮
「何度見ても、手本みたいな字だな。ハク公子は字がお上手だ」
トアハはハクの書の隣にツェランが書いた紙を並べた。
「それは?トアハ兄さんの字じゃないですね」
「ツェランが書き写したものだ」
「ああ。前に言ってた凄腕の剣士ですか」
「剣だけじゃなく、刀や槍も扱います。しかもそこらの武人より巧い。得難い逸材です」
「文字は、トアハ兄さん自ら教えているのですか」
「ええ。あれは、一兵団の団主の上、団師だって目指せる器だ。わたしはあれを一門弟で終わらせるつもりはない」
トアハがそれほど期待をかけるなんて珍しい、とハクは思った。
明日は槍が空から降ってくるかもしれない。
彼は人を当てにしない性格だ。
一方でハクは思った。
(ジウォンとトアハ兄が出会っていたら)
どうなっていただろうか。
ふたりとも同年代だし、良い友人になったのではないだろうか。
「初めて筆を持った者にしては悪くない出来です」
「えっ」
ハクは目を丸くした。
(初めて?ツェランは文字が読めないのではなかったか)
確かにツェランが書いたという字は全体的にバランスがとれておらず、上手い字とはいえない。
だが、読めなくはない。
ハクは文字を知らない者を知っていた。
ジウォンは文盲だった。
体術や舞踏や、身体を使った動きは一度見ればすぐに覚えて忘れないのに、文字というものには馴染みがなく、墨をつけた筆に書こうものなら、まるで形にならないのだ。
だがツェランという者が紙に書いた文章は、せいぜい書き慣れていない者が書いた文字のように思える。
ジウォンももの覚えは悪くないので教えれば見てわかる程度にはなったものの、書くとなると、手本を、何度も見比べていた。
そして正しく書きとれているかはまた別の問題だった。
ハクがジウォンに教えたのは北の文字だが、ツェランが書いたのは南の文字だ。
北よりも南で使われる文字の方が同じ文字でも簡略化されているから、初学者には書き取りやすいのかもしれない。