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【連載小説】 銀(雪舞心計15)ジウォン/ハラン


寒蘇州 北海氷宮郊外


 澄ました顔をして控えていたが、近衛団の団長リウェンはある奴婢に目を留めた。

 奴婢はジウォンという、去年の夏の暮れに連れてこられた者だった。

 ジウォンは小間使いや近衛団のなかでもよく語り草になっていた。

 どこかのお屋敷の御曹司はこのとるにたらない奴婢に熱を上げているという。

 人目を引く美形でもなければ、特別、気がきくわけでも、愛想がいいわけでもなかった。

 しかし、影を感じさせる横顔は退廃的でどんな過去を背負っているのか全てを奪われた者特有の壮絶な色香を纏っていた。

 ジウォンは当初、全身に酷い怪我を負ったらしく足を引きずっていた。
 今ではすっかり治ってお茶をもって部屋に入ってくる。
 部屋にはニ公子と太師と、色目人の華やかな男が腰かけていた。
 ジウォンが用意したお茶を置くとなにが気に障ったのか、太師は茶器を一瞥してジウォンを問い詰めた。

「お前、閣主さまに出すと知ってこの湯呑みを用意したのか」
「えっ」

(なにかまずかっただろうか)

 問い詰めらたのに驚き、ジウォンは膝をつき、小さく体を丸め、平伏した。口答えする時、対等であってはならない。奴婢の作法だ。

「はい」

 二公子がすかさずジウォンを背後に庇う。二公子の足が卓の脚に当たって湯呑みが中身ごと転がり落ちた。

「いっかいの奴婢が、閣主さまには銀食器を使うことなんて知るわけないでしょう?」
「お前も。なぜその奴婢をそばに置こうとするんだ」
「太師兄さまこそ。なぜそうジウォンを目の敵にするのです」
「お前が知らぬ事情があるのだ」

 平伏するジウォンのそばで陶磁の湯呑みが転がった。

 「閣主さま」と呼ばれる男が立ち上がり、二公子の肩に手を置く。

「ニ公子。そう兄君を困らせるものではない。弟が罪人の子をそばに置いて心配するなという方が無理な話だ」

 ひれ伏し、小さく体を丸めてひ弱なふりをしているが、イーハンは目の前の奴婢が手や足を切り裂いても油断ならない羅刹であることを知っていた。
 奴婢を殴るために振り上げたはずの腕は逆につかまれ、へし折られて力づくで相手を圧倒することなど、武門の出であるこの奴婢にとっては容易いことだ。

「太師。わたしはこの者が用意したものを口にしてはいない。だからそう弟を叱りつけなくて良い。.....お前も、下がりなさい」
「……」

 下がるよう言われ、平伏していたジウォンは身体を起こすと、密かに柔らかな物腰の男を目に入れる。
 目立つ男だ。ジウォンには見覚えがあった。
 ハクと別れた日、「閣主さま」と皆が呼ぶ色目人の男は芙蓉館でジウォンを捕縛した。





「災難だったな」

 水分補給のために立ち寄った厨房でリウェンはジウォンを見つけた。
 二公子ほど熱烈ではないにしても、人並みの関心はある。

「近衛団長さま」
「君はニ公子のお気に入りだ。覚えておきなさい。宮主さまや閣主さまのような高貴な方に膳や茶をお出しするときは銀でできた箸や茶器を使う。銀は毒に反応するんだ。
 とくに蒼雪閣の閣主さまは常にお命を狙われるお方だ。太師さまも神経質になったんだと思う」

 弟思いのジェスンがジウォンを警戒するのはいつものことだったのでジウォンは気にしなかった。

(それよりも)

 ジウォンの瞳が青暗く沈む。

(あの男。蒼雪閣主というのか)

 名前ではなく、役職名だろうが、ジウォンにとって重要なのは、そこではなかった。男は今も、ハクを狙って追い回しているかもしれない。
 男はジウォンがソル氏族であることを知っていた。おそらくビョルンの死に関与している。けれどわからないこともあった。

 師父ビョルンが、そう簡単に敵の手のうちに落ちるだろうか?





南都紅宮 本宮


 ツェランから見ても、南の宮主ハランは孤高で群れず、地位も血筋も美貌も財産も、良心以外のものは全て持っている女だった。

 側室選抜を突破したハランは乾いた目で絢爛豪華な衣装を見ていた。
 天氷月を売り払って得た金子は打掛やら紅玉髄の耳飾りやら金細工が施された簪やら、贅沢品にかわった。すべて貴族の威厳を示すのに必要な品々だった。
 これから袖をとおす深紅の打掛にも金があしらわれている。

「ご内室さま。洗顔水が参りました」

 大きめの桶をもった宮女と顔を拭くための布をもった宮女など、何人かの宮女が部屋に入ってくる。ハランは扇子を手とり口元を隠した。

 机の上にたっぷりとぬるま湯で満たされた桶がおかれる。
 ハランはおもむろに深紅の打掛から桶の水に視線をうつす。水には手をつけず扇子を口元にやった。女人の身支度には時間がかかるものだ。

「良い香りね」
「肌の良いとされる薔薇水にございます。宮主さまの御前に侍るのです。我らが主人には一番美しくいていただかなくては」
「ほう?」

 宮主の赤い唇が扇子に隠れて艶やな微笑を浮かべる。

「近う」

 扇子で口元をかくしたまま、ハランは宮女たちに近くに寄るよう言い、口元を隠していた扇子をたたんで文机の端に置く。女官たちの前にそれまで扇子で隠れていた絶世の美貌があらわれた。ハランはさきほどまで扇子を持っていた手で桶をつかみ、勢いにまかせて桶のなかの水を宮女たちにぶちまけた。

「きゃああ!!」

 水が宮女たちの顔や肩や衣服を濡らした。宮女たちはおどろき、あわてふためいて濡れた袖で肌や顔の水を拭いながら赤くなったり、青くなったりした。女官たちのあわてようにハランの目が赤く底光りする。

「薔薇水と言ったか。ただの洗顔水に、なぜ怯える」

 詭道でも操りそうな剣呑な女主人の視線に宮女たちは震えあがり、慌てて床に膝をつき、額をこすりつけて半ば叫ぶように声をあげた。

「どうかお許しください!」

 縮こまった宮女たちにハランの目は急速に関心をなくした。

「さがれ」

 女の一声に宮女たちはそそくさと部屋を後にした。ツェランは宮女たちの背を呆然と見送り、ハランがぶちまけた洗顔水が自分の革靴をわずかに濡らしているのに気づいた。

「宮主さま、これは…」
「さぁ?立金花を抽出して濃度を高めたものだろう。少なくとも薔薇の見頃はふた月は先だ。念のため身体を拭いておけ。立金花の毒は皮膚をだめにするんだ」

 ぽい、とツェランにふきんを投げ、空いた手を紅い打掛にかける。ハランは黒い小袖のうえに深紅の打掛を羽織り身を翻した。
 贅を尽くした真紅の衣装を着こなす美貌の女王にツェランは思わず息をのんだ。ハランはその存在感だけで一帯の空気を自分の色に染める。見るものを圧倒するのだ。

(これが齢十八の娘だと?この威厳はなんだ)

「あれは、後宮付きの宮女だろう。女の顔をつぶすのを狙ってよく使われる手だ。たとえば意に沿わない側室の女の顔を見られなくするのにな。だが王者の顔を狙うとは」

 宮女に宮主が女性であることは伏せられている。
 ハランは側室選抜を突破して入宮した、架空の宮主(男)の側室だと宮女たちに思われている。宮女たちはすでに、支持する側室を決めたのかもしれない。支持する主人のライバルとなる女を排除するのが宮女の忠誠心だ。

(宮女に金子でも握らせたかな)

 ハランは側室選抜を切り抜けたもう1人の娘を思い出す。
 側室選抜を経て南都紅宮に入宮したミシルは下の者の扱い方を心得ているようだった。
 その明媚さを謳われる南都紅宮は極楽浄土の姿をした伏魔殿だ。
 どうやらハランが千夏宮でハクとカジンに会っていた間、ミシルは下の者の根回しを済ませていたらしい。

「さ。宮主さまのもとへ参ろうか」


 後宮では、側室ミシルと、宮女たちが宮主の夕食の支度を進めていた。

「今晩の夕餉はミシル妃が手ずからご用意されたようよ」
「まあ!ではついに今晩、宮主さまが後宮にお渡りになるかもしれないわね」

ツェランは首を傾げた。

(ミシルのところの宮女か)

 なぜミシル付きの宮女はなぜ宮主のお渡りにあんなにも確信を持っているのだろう。
 御簾をのぞくと、宮主(架空)に扮したトアハが腰掛けていた。
 御簾をのぞいたツェランに、トアハが人差し指をたてて唇の前にもっていく。

「静かに」

(なるほど、影武者ということか)

 本物の宮主はもうひとりの側室と一緒に夕餉の支度を進めていた。
 ハランがミシルから膳を受け取り、銀でできた箸で魚の骨をとる。惣菜も小皿にとりわけ、側に控えていた宮女にさしだす。

「?」
「毒味せよ」

 昼間の一件があるので宮女はハランがとりわけた小皿を受け取り、箸をつける。
 宮女がとりわけたものを喉に流し込み嚥下するのを見届けてハランは宮主がいる御簾の向こうへ膳を持ち込んだ。





南都紅宮 内宮。


 消灯時刻になっても蝋燭の灯りが消えず、不思議に思ってツェランが御簾の向こうにいるトアハに声をかけた。
 返事はなく、息づかいがわずかに聞こえるだけだ。
 おかしい。ふだんは人の気配に敏感過ぎる人だ。
 こういう時、ツェランは素通りしない。果断に御簾の向こう側へ潜りこむ。

「師兄!!」

 ツェランは床に倒れ込んでいたトアハを抱き起こす。

「ぅ.....、だ、れ.....」

 頬は薔薇色に上気し、目は潤んでいる。 

「師兄? 師兄!」

目の錯覚だろうか。
息を乱すトアハはひどく官能的だ。

(なにが、起きている?)

 昼餉の後はなんともなかった。
 何かを盛られたなら、夕餉のときだろう。
 ミシルとかいう女が宮主に用意したという膳。
 そしてあの女宮主がトアハを影武者として宮主に据えている。

(本物の宮主の方が、毒味をさせていたのに、なぜ)

 ミシル付きの宮女は今晩、宮主が側室のもとに渡ることに妙に確信を持っていた。

(夕餉の膳に仕込まれたのは、まさか)

 全身に熱をもち、見る者を誘惑するトアハの姿は目に毒だ。
 大師兄のあられもない姿を他の門弟たちが見つければ、それはそれで面白いことになるだろう。
 しかしツェランはこの姿のトアハを他の門弟たちの目にふらさせたくなかった。
 ぐずぐずしていたら、門弟よりも前に、女が部屋へ来てしまう。
 宮主(架空の男)の子種が欲しくてたまらない女が。
 ツェランは厚手のふとんをもってきて意識が朦朧としているトアハの身体をふとんでぐるぐる巻いて包んだ。

 「少し我慢しろよ」

 そのまま横抱きにして足で戸を蹴り、宮中の奥へ駆け出す。
 南都紅宮はいくつかの宮殿群からなり、大小、様々な御殿がある。その間をぬうようにトアハを抱えてツェランは走った。
 人の気配のない、できれば身体を休められそうな場所を探した。
 トアハの貞操と安全が確保されるところならどこでもよかった。
 竹林を抜けようとすると急に現れた黒いシルエットがツェランの前に立ちはだかった。背丈からすると男だが、顔が見えない。

 「!」

 気配を感じさせない足の運び方や立ち姿からして只者ではない。
 すらりとした黒衣の影は面紗で顔半分を隠している。
 千夏宮の用心棒だろうか。

(くそっ!こんな時に)

「これより先は千夏宮だ。一門弟が許可なく立ち入ってはならん」

 背は高く、声は若い。体格からして若い男だ。
 夜、あたりは暗く、顔も隠していて輪郭しか見えないが竹林を背にした立ち姿は存在感がある。
 トアハはいつも、この男のもとへ帰っていくのかもしれない。
 だが、今は他のことにかまけている場合ではない。

「休めるところを用意してくれ!あと清潔な布と湯と、念のため服もな!大師兄の食事になにか盛られたんだ!」
「なに」

 顔を黒い面紗で隠した男はツェランが抱えていたふとんを少しめくり、トアハの顔を確認した。頬が赤く上気している。

「こちらへ。カジンさまには話を通してやる」




「ハカン。何事か、あったのか」
「宮主さま。カジンさま」

 ハランとカジンは珍しくハカンが千夏宮の外に出たので何事かと駆けつけてきた。

「トアハ兄さんの食事になにか盛られていたようで。慌てた門弟が倒れた大師兄を運んできたのです」
「食事?夕餉の膳か?」

 ハカンとカジンはハランを見る。

「宮主。なにか心当たりは」
「いや、ない。膳に銀の箸をつけたが銀に反応してなかったし、毒はないはずだ。それに、毒味もさせている」
「それではなぜ」

カジンはハカンに訊いた。

「ハカン。大師兄の顔を見たか?どんなふうだった?」
「熱があるのか頬が少し熱かったです。息がしづらいのか、口呼吸でした」

 つづいてカジンはハランの方を向く。

「ハラン。その膳は、内室が宮主に用意させたものだな」
「ええ」
「で、毒味をしたのは宮女か」
「そうですが、なにか」
「カジンさま。その、そういう薬は効果に男女差があったりするのでしょうか」
「さあ。知らん。盛ったことも、盛られたことないからな」

 聞くな、そんなこと。と、カジンは呆れた顔をしてハランを見る。

「?」
「察しの悪い娘だこと」
「は?」
「…..カジンさま。こんな時に姫宮を煽らないで。宮主さま。皆、宮主が女性だとは知りません。ご側室は当然、宮主さまを男性と思っています。宮主さまのお渡りを望むご内室が仕込んだのは、おそらく」

 ハカンが歯切れ悪く濁したのをカジンが引き継いだ。

「仕込まれたものは、命を奪うような毒薬ではなく、むしろ精をつけるような薬だろうよ」

 力で劣る女が男を襲おうと思うなら、男が倒れるような薬を選ばなければならない。しかし、事に及ぶことができないほど元気をなくしては困る。本当に倒れてしまっては肝心な目的を果たせないからだ。
 三人は顔を見合わせた。

「催淫薬….?」


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