ウミガメ日記
母が亡くなる前、もう10年以上前のことだけど、 一緒に東京を歩いたことがある。 確か従兄弟(母には姪)の結婚式で上京したときのこと。 有楽町を歩いていたら、あるビルを指して 「私はあのビルで働いていたんだよ」と言う。 そのビルはtoshibaと表記されていた。 母方の親戚が東京には何軒かあった。 学生時代、新橋にある母の叔母という家を訪ねたことがある。 50年以上も前だから、新橋駅もごみごみしていた。 駅から歩いて数分のところにその家はあった。 欄間を指さしながら「これを作
当時(昭和44,5年頃)、求人広告が新聞に掲載されていた。 新聞1面、多い時は2面が求人広告で埋まっていた。 その中でも人気が高かったのは朝日新聞。 求職で最も多かったのは病院勤めしているから目についたのかもしれないが 看護婦さん募集。次いでデザイナー。 そんな中、時々、デザイナーの横に広告文案家というのがついていた。 これがコピーライターである。 デザイナーとコピーライターと横文字で並べた広告に興味をもった。 ちょっと進んだ会社ではと。 野坂昭如、五木寛之がコピーライター出
病院勤務が終の仕事ではない。 その思いが日に日に深まった。 学士入学もきっとダメだろう。 それなら何をするのか。 考えれば、最初の就活(昔はこんな言葉はなかったが)で まず、映画会社を想定していた。 年間200本以上の映画を観て 戦後映画のシナリオ20年分くらいは読んでいた。 しかし、映画斜陽でボクの希望は閉ざされていた。 マスコミの試験をいくつか受けた。 大阪、愛知のテレビ局、地方の新聞社。 わずかに地方の新聞社の1社から最終面接の知らせを受けていた。 実はこの新聞社、U
気づくと事務所のそばのヤマボウシの実が たくさん生っている。 秋になるとこれが真っ赤に色づく。 どう成長していくか、楽しみが増えた。 ボクの学士入学計画は頓挫した。 学園闘争の流れで、卒業という資格が取れていなかった。 2つの方法を考えた。 1つは大学を正式に卒業すること。 そのために毎週1回、とにかく出席日数を稼ぐために 大学へ通い始めた。 2時間だけの講義なので半日もあれば十分だった。 2つ目は学士入学を一端、中止し、 一般入試を受験することにした。 結果から話そう
わが家のレモン。 今年は何個か採れそうだ。 花はたくさん咲いて、実もそこそこ生って。 実はジューンドロップで落下し続け いまは10個ほど残っている。 去年は最終2個の収穫だった。 今年はもっと残りそうだ。 さて、病院勤務を始めて半年。 秋になって、大学へ卒業証明を取りにいった。 学部の事務室には知った顔があった。 大学封鎖のためボクらには卒業試験が無かった。 卒業式はもちろん卒業証書ももらえなかった。 活動家シンパだったので、それを非難する気はまったくなかった。 学園封鎖か
おっと、7月半ばを過ぎた。 大好きな浜木綿の花が咲き始めた。 この花を見ていると若い頃の夏を思い出す。 また記述が空いてしまった。 「病院勤務②」を書く。 前回とつながるかどうか判らないけれど。 病院勤務も3ヶ月ほど経つと、なんとなく仕事の中身がつかめるようになってきた。 レセプトの書き方も要領良くなった。特別な病気というのは少ないので、治療の内容もそんなに変わることがないことに気付いたのだ。 それを覚えると次はクスリの管理。いまのように医薬分業ではなかったので、クスリの在
病院勤務が始まった。 事務長代理というのは建前で、雑用係だった。 まず覚えなくてはならなかったのは診療点数。カルテを見ながら、診療報酬の点数を記入、クランケ(患者のことをそう呼ぶことから始まった)から診療料金、治療費をもらうことを覚えなくてはならなかった。 次には、その報酬を健康保険組などに請求するためのレセプトの記入、制作。これはとても面倒だった。 いまはPCに診療点数を入れれば自動的に計算されるらしい。 私が勤め始めた病院は、正式というか法的には診療所の分類だったが、そう
帯の商社に就職して いくつもの初めてに出会った。 配属されたのは倉庫というべきところ。 そこには当然だが、数多くの着物や帯が大事に保管されていた。 まず、その種類の多さに戸惑った。 いまはすっかり忘れたが袋帯、名古屋帯、八寸、五寸、角帯・・、 とにかくそれらを覚え、営業の指示で引っ張りだし、店に届ける。 その流れの中で着物・反物の扱い方ができるように ならなければならなかった。 反物を巻くだけでも慣れが必要であった。 そんな珍しい体験は面白かったが3か月後には迷い始めていた。
私は疲れ果てていた。 就職の希望はマスコミ関係だった。 もう半世紀以上前の話である。 いろんな手を使って放送局や新聞社の入社試験を受けた。 たったひとつ、地方の新聞社の試験に合格した。 でも、どうしても納得がいかなかった。 地方の新聞社でさらに地方の駐在記者などになったとしたら。 私はその生活が見えなかった。 で、4回生の秋、それを断った。 以後、私に幸運は訪れなかった。 同時に、大学の封鎖が始まった。 私はその封鎖の中へ出入りをするようになった。 一方で野心を尖らせた。 と
かなり料理をする。 この「かなり」は質ではなく量。 どんな料理かといえば、 思いつき、面白い料理。 たとえば、今回は大阪流お好み焼き。 確かにちょくちょくお好み焼をつくってきたが それは大阪流ではないらしい。 「千房」「ぼてじゅう」「鶴橋風月」など お好み焼きの有名処はよく食べてきた。 それを真似て家でもつくってきた。 それはどうも大阪流ではないらしいのだ。 ネットでそれを発見した。 材料:ほぼ2人前 たまご 2個 長いも 7~10㎝ 小麦粉 小麦粉 50cc キャベツ 4
白浜町の魚博物館を訪ねて、 しばらくしてから、再び、 房総半島の先っぽを訪ねることになった。 ある画家に仕事のお願いするために出かけたのだ。 あれはいつだっただろう。 その時の帰りの電車から見る菜の花がとても鮮やかだった。 で、こんな句を書いた。 菜の花と一緒に帰る昭和かな たかし 菜の花真っ盛りだったから 春。 この内容からすると 昭和から平成へ移ってから数年後だったのだろう。 句を書いて何年か後に 司馬遼太郎さんがお亡くなりになった。 あるときから、 その忌日を
先ず仕事の「初めて」から書いていく。 私がコピーライターとして 初めてロケ&取材に行ったのは 房総半島の先っぽ。 なんて町だったかなあ?そうそう、白浜だ。 魚博物館への取材だった。 和歌山県(紀伊)と千葉県房総の地名はよく似ている。 紀伊半島の漁師たちがまぐろ?を追って 房総半島まで行って、立ち寄ったりして、 そのまま居ついてしまうこともあったという。 その彼らが故郷を想うあまりに紀伊の町の名前を そこらに付けたとか。 江戸の頃のそんな話などを確かめる?ということで 魚の博
雑草を刈るために鎌を使った。ずいぶんに久し振りに鎌を振り回す。 昔、私が小学生の頃、祖父は私に山羊の世話をさせた。父はサラリーマンだったが、私の家族は祖父の家に同居していた。祖父はかなりの農家家であった。 私は毎朝、家の周辺の草の繁った場所へ山羊を連れて行き、学校に通うようになった。しかし、雨の日はその繁った草を鎌で刈り取って山羊に与えなければならなかった。なにしろ戦後10年ぐらいの時代なので、飼料なんてなく、自然に生えている草が山羊の餌であったのだ。 祖父はやがて10
戻れるとしたら何歳に戻りたいですか? そんな質問をよく見る。 ボクはそんな質問に、まったく興味がなかった。 ところが歳をとるにつれ、そのことを実際に考えるようになった。 ○歳に戻れたら戻りたいなあ。 △歳からやり直せたら確実にいまの人生と違ったよなあ。 そんなことがアタマに渦巻き 悶々というか、ボクの思考の多くをそれが占め始めた。 そこで気づいたのだ。 そういうどうしようもないことを書いてみようと。 そして、いまから徐々に、それを書くことにする。 書くつもりである。 たぶん、
「いつも隣に山頭火」(井上智重著 言視舎)を読んでいる。 山頭火は自由律俳句といわれる。 「分け入っても分け入っても青い山」は 「分け入っても」の反復(リフレイン)で 定型を駆使した俳句ではなかろうか。 ちなみに六六五でできている。 「あるけばかつこういそげばかつこう」 これも反復のリズムを使っている。 定型をもとにした自在な句と呼びたい(坪内稔典)。 山頭火の基盤は定型なのだ。 反復は俳句の技術としてかなり有効な気がする。
俳句には「プロ」がいる。 「プロ」と言っても、それで食べていける人は 本当に少ないから、多くはホンモノの「プロ」ではないかもしれない。 とにかく、こういう人があれこれうるさい。 俳句は形式(技術)と表現内容の2つから評価される。 しかし、その入り口の「技術」に終始される。 五七五、季語、切れ・・・・。 初心者はそこで疲れる。 書店で見れば判るが俳句の本の大多数が技術書である。 表現内容、中身を学ぶ本は皆無かもしれない。 で、プロみたいな人がときどき言う。