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〇〇マンガが生んだやべえ「何か」。『出会って4光年で合体』

※読み終わっていろいろ溢れてしまい、その勢いで書いたレビューなので、いろいろ粗いと思います。ご容赦ください。

やっと読み切った。疲れた。SNSで話題沸騰中の18禁同人作品。
商品説明ページに一切のあらすじ紹介がない。すべてのページが大量の文字で埋め尽くされている。読みやすさ一切拒否の382ページ。
〇〇エロが生んだ異形の言語SF。『出会って4光年で合体』。

たぶん、令和の「〇〇ともだち」として、今後末永く語り継がれるカルト作となるだろう。

「エロマンガの枠を超え」そうな作品

個人的には、本作はエロマンガではないと思う。多分今後、「エロマンガに見えてエロマンガではない」「エロマンガの枠を超えた高尚なSF/文学作品」として評価されていくのではないか。

私はエロマンガ批評家を名乗って活動しているので、そういうタイプのエロマンガ評にいちいちキレている。だからこの作品にも複雑な思いを勝手に抱いている。しかし、一気に読み切ってしまった自分に嘘はつけない。どう面白かったか、簡単なレビューを書き残しておく。

「LO的自意識」と「言葉」

先ほども書いたが本作の作品紹介ページにはあらすじがない。むしろあらすじをはぐらかし続けることがあらすじの作品と言ってもいい。なので、ストーリー紹介はしない。物語と表現の、抽象的な構図だけを取り上げる。

本作の根本には、美しく可憐で、世界のすべての意味がかかっているような「少女」と、醜く卑小で、全く無意味な人生を送る「自分」、という対比がある。これはある種の〇〇マンガの中でオブセッションのように反復されるテーマで、私は勝手に「LO的自意識」と呼んでいる。その意味で、本作は〇〇マンガの系譜を継いでいる。

本作が独創的なのは、このさんざん反復されてもはや手垢のついた二項対立に、「言語」という第三項を導入したところにある。ページを埋め尽くし、本作をマンガという表現形式のギリギリ限界まで追いつめている、あの「言語」である。

これはマンガか?

本作を読む人は途中までこのモノローグの海を、ネガティブでネクラでコミュ障な主人公(「自分」)の暗く鬱屈した自意識を表現したものだと思うだろう。しかし、あるところまで読むと、むしろこの言葉は美しい「少女」を記述するための物語だったことがわかる。その「少女」は、主人公にしか見ることができない(御免なさいの名作〇〇マンガ、『だから神様、ボクにしか見えないちいさな恋人をください。 』を想起しないわけにいかない)。「自分」にしか見えない「少女」を、「言葉」で物語ること、それが本作のテーマである。

共産主義と少女

この構図を鮮やかに表現したコマがある。

これはたぶん、山本直樹『レッド』の有名なシーンのオマージュではないだろうか。

『レッド』では、連合赤軍メンバーが戦わせるジャーゴンに満ちた論争が、ページを埋め尽くす言葉で皮肉られている。その論争は「共産主義」という中心を巡ってなされるが、しかし何をどうすれば「共産主義」を実現できるのか、具体的に理解しているものは一人もいない。いわゆる「空虚な中心」というやつだ。

『出会って4光年で合体』では、「共産主義」の位置につくのは「少女」である。ただし決定的に違うのは、「共産主義」と違って「少女」は絵で描けるということだ。「少女」との数少ないセックスシーンでは、画面を埋め尽くしていたセリフはなくなり、シンプルに美少女を見せる描き方に変わる。


いくら「言葉」を尽くしても、その美しさが行間に溶けて行ってしまう「少女」。その圧倒的な美は言葉ではなく絵で表現される。絵と言葉を組み合わせ対比させることができる、マンガならではの表現と言えるだろう。

言葉の公共性

では主人公が紡ぐ「言葉」は、「少女」の美しさに触れえないまま、何もできずに終わるのか?そうではない。たとえ触れえなくても、いや触れえないからこそ、主人公はなんとか少しでも「少女」を表現しようと思って、物語を紡ぎつづける。

そして言葉というのは公共的なものだ。たとえほとんど独り言でも書き留められてしまえば、例えばネットを介して、幾重にも誤読を伴いながら、誰かの共感を呼んでしまうかもしれない。その結果、「自分」と「少女」で閉じた自意識の世界が、宇宙的スケールでぶち破られる。それが本作のクライマックスである。

「言葉」という公共性を持った第三項を導入することで、「LO的自意識」の殻を壊す。ここが本作の、〇〇マンガであって〇〇マンガに閉じこもらない見事さだ。エロマンガ読みの人ほど爽やかに感じるだろう。

また、「自分」にしか見えない「少女」を物語ることが本作のテーマだと書いた。言うまでもなくこれは、〇〇マンガをはじめ、架空の少女を表現し続けて来た、日本のオタク文化のことである。そのオタク文化が、オタクの閉じた自意識の壁をやぶって、どこかの誰かと共感の輪を築き、なにか風通しの良いことを起こしてしまうかもしれない。そんな「〇〇文化賛歌」の話でもあるといえる。

正直、圧倒的な情報量によって、ただひたすらはぐらかされているだけの382ページという気もしないでもない。化け狐が重要なモチーフになっているが、それこそ、狐に化かされたような……。

また、サブカルや教養の範疇に囲われたエロと対比する形で、「ポルノ賛歌」が謳いあげられもするが、それにしてはあまりに衒学的なディテールが目に付く(ピーターシンガーがどうこうのくだりはちょっと恥ずかしい)。全然エロシーンのボリュームもないし。『キャノン先生トばしすぎ!』と同じ、「ポルノのすばらしさを謳った作品がポルノでなくなってしまい、結果ポルノを馬鹿にしている奴らにウケる」問題にハマっている気はする。

しかし、〇〇マンガが生んだ、見逃すべきではない「何か」であることだけは間違いない。多分今私たちは、新しい古典の誕生に立ち会っている。


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