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その馬の名は、グラスワンダー


「これが新しい栗毛の怪物!勝ちタイムがなんとっ!
 いっぷん!さんじゅう!さんびょう!ろぐぅ!」

何度も聞いたあの実況。
あの朝日杯から、早いものでもう23年が経ちました。

ですが、私はこの馬が「怪物」と呼ばれていた時代を知りません。
朝日杯後の骨折の知らせに、受けていたはずの絶望を体感していません。
より強い感動をもたらすことになったであろう、1年という勝利までの長い時の流れは、連続映像の中のたかだか数分間で消化されてしまいました。

だから私は、この馬の現役時代を語ることはできません。
残念ながらこの先もずっと、ずっと上辺だけの知識でしか話すことができないのです…。

―― その馬の名は、グラスワンダー。
   私が初めて愛したサラブレッドです。


正直に言うと、グラスワンダーという存在との出会いはどこだったのか、
記憶には全く残っていません。
何かのテレビ番組で取り上げられたのを見たのかもしれないし、
何かの雑誌での記事をたまたま見たのかもしれません。


しかし、グラスワンダーとの出会いは今でもはっきりと覚えています。
あれは2009年・秋。
映像の中のグラスワンダーに魅せられて、まだ間もなかった頃です。
あまりにも衝動的でした。
その時の私は「グラスに会わなければいけない」と、急に何かに駆り立てられたのです。

当時グラスがいたのは、ブリーダーズスタリオンステーション。
私は函館。その距離は300km。あまりにも遠すぎました。
しかも、当時の私は免許も持っていない、ただの学生身分。

「友達の家に泊まってくる!」などという適当な言い訳をつけて、
その次にはもう夜行列車に飛び乗っていました。

初めての深夜の一人旅。
家出みたいな感じがして、ワクワクが止まらず寝れませんでした。

電車を乗り継ぎ、ブリーダーズスタリオンステーションの最寄り駅である富川駅には、7時前にはもう着いていたと思います。
富川駅からブリーダーズスタリオンステーションまでは4kmくらい。
当時の見学時間は、9時半から。
お店なんてどこも開いてないので、暇をつぶすこともできず、ブリーダーズスタリオンステーションの目の前を長時間ウロウロする不審者の誕生です。

不審に思われたのか、牧場の方が敷地から出てこられました。
『まだ開場まで時間ありますし、ここ駐車スペースなんで車持ってきて大丈夫ですよ?』
「すみません。実は徒歩なんです…」
『えっ!?駅から歩いてきたんですか?そんな方、初めて見ました…』
牧場の方は、いや嘘だろおい、みたいな反応で仕事に戻っていかれました。


日もだいぶ昇り、見学者もだんだん集まりはじめ、待ちに待った開場です。
見学が許される時間は、わずか1時間。
広い放牧地で、いかにグラスが近くまできてくれるかが勝負です。

移動の疲れも忘れ、一目散にグラスの放牧地にたどり着きました。
グラスです。グラスがいます。
あのグラスワンダーが目の前にいるのです。


―― これが、あの、グラスワンダー。


私の肉眼とグラスの間には、今や何も隔たりがありません。
静止画でもなく、映像でもない、
本物のグラスワンダーに、ついに出会うことができたのです。

肉眼で満喫し続けるのもいいですが、この瞬間を記録に残したい。
なけなしのバイト代で買ったコンデジの出番です。


―― 遠い…。遠すぎるよ…。


ついに出会えたグラスは、ずっと放牧地の一番奥で草を食べていました。
50m近くはあるでしょうか。
でも、体感的には何km先にも、何光年先にも思えます。
とても当時の安いコンデジでは鮮明になんて映りません。

▼放牧地最果てまでの距離感

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グラスは遠く、時間だけが刻々と過ぎていき、
豆粒サイズでも生で見れたんだしよかったんだと、悟りを開きかけた私の前に救世主は現れました。

開場前に話しかけてくれた、いや嘘だろおい、みたいな反応をして仕事に戻られた牧場の方です。

毎日接しているパートナーの登場。
なんて心強いんでしょう。

口笛を吹いて、グラスを呼びます。
グラスは気にせず草を食べています。

集牧時の掛け声と思しき感じで、グラスを呼びます。
グラスはお構いなしに草を食べています。

グラスの元に向かって、食べ物で釣っています。
グラスが釣られてこちらに向かってきました。ちょろい…。

▼近くまできてくれたグラスと、近くまで呼んでくれた神様

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さっきまで近くにいるはずなのにあれだけ遠く感じたグラスが、
さっきまでとは違い本当の近くにいるのです。

いろいろなものが込み上げてきました。

リアルタイムを知らない私がファンを名乗っていいのだろうかなんていう、
今思えばあまりにも無意味な後ろめたさに当時は囚われていました。
ただ、その後ろめたさから解き放たれたのは、間違いなくこの瞬間でした。

込み上げ続ける言葉に表しきれない感情の数々は、
私がグラスワンダーのファンであることのちゃんとした証明なのでした。

まるで憑き物が落ちたように、晴れやかな気持ちになった私は、
あとは時間が許す限り、グラスと一緒の時間を楽しんだのでした。

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―― それから数年後

私がグラスの孫にぞっこんになるのは、また別のお話。


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こちらの記事は、Youtube『"おんちゃん" 企画「あなたの競馬のお宝見せて下さい!」』に投稿した内容を『競馬 Advent Calendar 2020』向けに一部加筆修正した内容になります。

■『競馬 Advent Calendar 2020』
 企画者:TakkuMattsu(@NorsteinBekkler)さま
 URL:https://adventar.org/calendars/5130

■『"おんちゃん" 企画「あなたの競馬のお宝見せて下さい!」』
 企画者:おんすろーと。(@On17310)さま
 URL:https://www.youtube.com/watch?v=SJiz-Vt3I3w

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