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推しが負ける

*これはフィクションです。

 ある日推しが負ける。推しは将棋という100%純粋に個人競技のプロだから、野球のようにチームのだれかの力がもう少しとか、ゴルフのように風や運のせいにはできない。
(でも、人間だから。負けることも当たり前)

 だが次の対局も推しが負ける。
(相手の準備がさすがだったものね)

 そして一局勝っても次は負ける。
(対局続きで忙しいものね)

 さらに、また推しは負ける。
(ちょっと調子がおちているのかしらね)

 次も推しが負ける。
(大丈夫。次は勝ってくれる。信じてる)

 そして推しは負ける。タイトルをひとつ失う。
(相手が強いのはわかるけれど。まあ今はいろいろ試してるのよね)
推しがさらに強くなるためなのはわかってる。けれど勝たないといけない対局ならきっと勝ってくれるはず。信じる。

 だが、推しはあっさり負ける。
熱戦だった、名局だと騒がれる賞賛は、みんな対局相手のものになる気がする。そうじゃない、とわかっていても、なんだか落ち着かない。

 そして推しは負ける。

 同じ相手に負け続けタイトルを失う。
 もはや対局相手を素直にみることができなくなってくる。
 相手が受けている戦略や指し手への誉め言葉は、去年推しが受けていたものと同じではないのだろうか?
(あかん。苦しい)

 テレビ放映では、何か月も前の収録の棋戦で負けている。
 そしてそれとは別にきょうも推しは負ける。
 タイトル挑戦の可能性が一つ減り、他の棋戦でも可能性がほとんど低くなる。

 なんとなく重たい空気が頭に充満する。
 仕事でメールの宛先を間違えて総務課の手島さんに送るところを販売の豊田さんに送りそうになる。あわやの大惨事。
(これはいけない。こんな風では正しい推しのある生活とは言えない)
 しばらく将棋から離れよう。そして某プレミアムも某某プレミアムも、ついでに某棋譜速報も解約してしまう。そして、携帯中継は‥。
(やっぱり結果は知りたいものね)

 そして次の日にまた推しの対局中継が某プレミアムであることを知る。
(いや。しばらくは距離をおこう。もっと冷静に、客観的に、他人事として、クールな気持ちにならなあかんし)
 推しと無関係な対局で、携帯中継を開くとトップ画面に設定してる推しが出てくる。ちょっと切なくなる。
(大丈夫。わたしは冷静)

 そしていつのまにか某プレミアムを再契約している。
(大丈夫。勝っても負けても、それは推しがさらに強くなるプロセス。しっかり見るから)
 なんで将棋を見るのにこんな覚悟と状況分析が必要なのかわからないが、とにかく。

 そして推しは(やっぱり)負ける。
(あらまあ、残念だったわねえええ。でもまだ挑戦の目はあるものね)
 しかしその時までに推しは復活するのだろうか。
(わたし待つわ、いつまでも待つわ)
 もはや昭和の民。
 そして。

 そして推しは師匠になる。
(ぎゃーっ。門下?箱推し?そんな言葉が推しの名前の下につくの?)
 弟子になるという世界と無縁だと、弟子になるひとに妬けてしまうやんか。
 師匠ってどんなきもち?保護者みたいな気持ち?
 なんか姪ができたみたいやな。
 この距離感。いままでの推しとの距離感と少し違う心地よい距離があるような気がする。
(それを感じるのは、意識的ディスタンスをキープしようと努力したきのうがあるから)
 寒気のなかで、きょうのこの場所で朝の空は完璧に青い。でも山の向こうでは吹雪とか大雪だ。少し距離があるだけでこんなに、と思う。
 推しを見ている部分は推しのすべてではない。いつだって相手は次の局面に進んでいるから。そしてそれが推すことの意味なのかもね。

 三密を避けるみたいな、推しの負けへの正しい対処法はあるのだろうか。
まあ、大丈夫。推しが負けても晴れる時は晴れるし、降るときは降る。わたしは見たいときに某プレミアムを見るし、見たくない時は見ない。それでもわたしの日常の意識をひきあげてくれるのは、推しの存在そのものなのだから。

 そして、推しは勝つ。もう季節はめぐってきらめく新緑のなか。目のさめる最善手を積み重ねて推しは勝つ。また負ける時があっても、もう怖くはない、と思う。 

*フィクションです





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