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こくこく船を漕ぐ国語に乞う

塾講の話なんだけれど、中3の一番アホクラスの国語の授業で、人はホンモノを認識できない、という説明的文章の問題を扱った。話の流れは、自分が思っている彼は彼の思っている彼と全く同じであることはないってとこから、ホンモノの彼を認知することは出来ないと入り、そっから多分イデア論的な内容、「まなざし」による認知の変化に移り、最終的に筆者が推奨する、自分を相手に理解してもらうには、自分のことは話さず自分の居る環境(周囲)を説明することが一番効果的な方法だって話だった。

勿論アホクラスだから問題解くウンヌンの前に文章を読ませ理解させないとで、色々砕いて例を用いて説明したんだけど、突然クラス1のおバカなヤンキー男子が「せんせぇ、そもそもホンモノなんてあるの?そんなん、どうでもいいじゃん」って言ったんだよね、

もしかしたら授業に対する、私に対する、世間に対する反骨精神でそんなことを言い出したのかもしれない、それでも私の中でガーンって背骨を思いっきり叩かれたような衝撃が走った、そうか、キミ、ホンモノなんてどうでもいいのか!

中学三年生の言葉って、きっと薄いようで深くて、浅いようで厚い、彼らは彼らなりに経験を生のまま、補正なんてかけずに持っていて、歳くった分思い出を出来るだけ甘くて美しい味に変えてチュウチュウ吸ってる私なんかよりきっと強烈に感じたものをそのままもっていて、ヤンキー男子は、わりと明るくって勉強が苦手なだけの何も考えてない青い男の子に見えたけど、どこかでホンモノの存在を感じられずに過ごしているという自覚や経験をもったのかもしれない。それは多分おそろしく些細な瞬間に感じたことであったとしても、私なんかより百倍機敏な心が気づいた重大な事実として、15歳の体の中に宿ったのだろう。

その後結構な時間、ホンモノは存在するのか、存在する必要があるのか、どこにあるのか、なんてことをヤンキー男子とその仲間たち数名と喋ってた、あまり内容を覚えていない、でもかなり筋の通った論理をお互いに話していたような気がする、

別に私に人を啓蒙する意欲があるわけじゃないんだけど、ああこの子達に授業としての国語なんかじゃなく、もっと深く、共に一冊の本を読み込んで、ひとの、世界の、思想の中を旅してみたいと思った、そしてその先で彼らのアイデンティティを形づくる哲学や考えに巡り会わせることが出来たら、どれだけ喜ばしいだろうかと思った、偉そうなことを、と、思うけれど、どうしても思った。

そんな教えを実現させられる教育像は存在するのだろうか、教師はいるのだろうか、むしろ今までの時代にいたのだろうか、
案外教育というのはファンタジーやSFに向いている主題だよなぁ、歴史フィクションでもいい、明治の片田舎の木造校舎で、国語教師がある学級に延々様々な哲学や学問を語るようなお話があったらそれはもう魔法学校の存在並に私の心を疼かせるなぁ。

こくごを学ぼう。

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