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『演技』を否定する役者さん。
白饅頭日誌のように本文を始めるなら……
清々しい日曜の朝、ボンヤリ目覚めながらも窓を開けて青空を眺める。やおらPCを立ち上げ、何気なくブラウザを広げたところ、ある場所で火の手が上がったのを見た(またかよ)。
『ゴールデンカムイ』実写化にあたり、ハリウッドで活動中の日本人俳優・松崎悠希氏の呟いたTweetが賛否両論、というかほぼ炎上状態になっている。
実写版「ゴールデンカムイ」でアシリパ役に…
— Yuki Matsuzaki 松崎悠希 (@Yuki_Mats) October 20, 2022
アイヌの俳優をキャストすべきだと思う人
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アイヌの俳優をキャストしなかったら観に行かない人
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金カム実写版制作者にいつもの「いい加減なキャスティング」をしたらどうなるか、見せてやりましょう。 https://t.co/pYHuhvPTxg
反応を読んでみると「宝塚や歌舞伎はどうなるのか」「宇宙人役は宇宙人でなくてはいけないのか」等々で、要はその理屈が通るならそうなってしまうぞ、というツッコミが多い。一番分かりやすいのは、かつて『トリビアの泉』の監修を務め現在は舞台演出家として活動する雑学研究家・唐沢俊一氏のこの一言だろう。
大塚周夫さん、青野武さん、多くの舞台出身者に「役者になってよかったこた」を質問したときの答えが「自分でないものになることの楽しさ」というものだった。それが「演技」の根本にある魅力であり、このような「出自が異なる者がその役を演ずる」ことの規制は演技の根本に反することで賛成出来ない。 pic.twitter.com/lOGjCfmKDL
— 唐沢俊一 (@karasawananboku) October 21, 2022
しかし当の松崎氏はこう反論する。演出家と名乗る人が何を言うか、と。
「演出家」ともあろう方が、生まれつきの「マイノリティ属性」を「俳優の演技の楽しさ」として消費することの加害性にすら想像が及ばないばかりか、「マイノリティ当事者による表象」に反論する根拠が「◯◯君がそう言ってたもん」ですか。随分とマジョリティ世界であぐらをかいてらっしゃるようで。 https://t.co/GGgObY0BUl
— Yuki Matsuzaki 松崎悠希 (@Yuki_Mats) October 22, 2022
ここまで読んでフト「(マイノリティ)当事者による表象」とは何ぞや? と気付いた。そこで調べ始めたところ、丁度いい文章を発見した。松崎氏による芸能活動を例に挙げ、実に分かりやすく書いている。改めて、noteは良い場所だとつくづく思う。
普通の役を普通にマイノリティ当事者の役者に演じてもらえばいい、ただそれだけです。
つまり松崎氏は「(マイノリティ)当事者による表象」を推進しており、『ゴールデンカムイ』もそうあるべきだと訴えているのだ。劇中で日本人が登場するならきちんと日本人を据える、LGBTQの役があるならその当事者に表現してもらう、そしてアイヌを題材に扱った作品ならアイヌの人達にやってもらうのがいい、と。
役者がその当事者に近付けるのではなく、当事者が演じることを普通なことにしたい……これは至極まっとうな意見である。
しかし、松崎氏は決定的にトンデモなく痛いことを主張しているのだ。この箇所である。
生まれつきの「マイノリティ属性」を「俳優の演技の楽しさ」として消費することの加害性
ならば「『演ずる』とは何ぞや?」となってしまうのだ。
その当事者に成り切り、彼らの心境をも感じさせるような演技をし続けてきた、そしていま現在もしているであろう俳優達の努力を、松崎氏は全て「加害性」と言い切ってしまった。
役者であるはずの松崎悠希氏本人が、である。
この時点で、自分は松崎悠希氏御本人のTweetに、マジョリティに対する「偏見」があるように思える。自分は海外でこれだけのことを体感し経験してきた、だから貴方達マジョリティはマイノリティに対する理解が足らない……と。
しかし先のnoteにはこうあります。ジェーン・スーさんだったかな?と前置きした上で
「二元論ではなく、世の中はグラデーションじゃないですか」。
世界は、というか人間社会はマイノリティとマジョリティの2つで成立するほど単純ではない。何かしらの「基準」を持ち出した時、そこでようやく二色に分けられる……が、仮にその色を白黒とした場合、その境目はきっちりと二分されてはいないだろう。
世の中は白黒ではなくグレーゾーンが圧倒的に広いのだ。全ての物事においてこれは当てはまると思う。それを松崎氏は二極に線引きし、かつマジョリティはマイノリティを演技という名で消費して加害してきた、と主張している。もはや首を傾げるしかない。
「誰」が「何を演じるか」の判断基準は本来自由であるはずだ。もしも、これは○○な役だから○○な人に演じて「もらわなければならない」という義務が生じた場合、グレーゾーンは完全に消滅する。そこへ「俳優の演技の楽しさとしてマイノリティ属性を消費することは加害性に等しい」という理論を持ち出すのは「演ずること」事態を否定しているのと同じである。
だからこそ、マイノリティの役をマイノリティ側の人が演じ、それらを自由に発表すること事態には何の異論も挟まないが、松崎悠希氏が海外でどのような経験を積んでいようと、演技そのものを「マジョリティの加害性」だとしたTweetには、何一つ賛同できないのである。
ーー今、松崎さんは、パワハラ、セクハラについて積極的に発言されていますね。
そういうことをする監督と仕事したい人なんていませんよね。だから、まともな考えを持っている人たちと第2の業界を作ればいいと思っているんです。パワハラ、セクハラをするような、あるいは多様性を無視するような時代遅れの業界人は、このまま化石となって消えればいい。
観客のみなさんには、パワハラ、セクハラをする監督の作品をボイコットし、そうでない監督の作品を応援してほしいです。多様な日本を、当事者を使って描く作品も応援してあげてほしい。パワハラ、セクハラをすると誰も見てくれず、逆にコンプライアンスを守るとそのこと自体が宣伝になる。そういう新たな常識を作っていきたいですね。
ならば、マジョリティがマイノリティを演じようと、マイノリティがマイノリティを演じようと自由だろう。
観客は「誰が何を演じたか」だけで作品そのものの良さや面白さを決めてはいない。あくまでも評価基準や判断基準の一つでしか無い。演技はもちろんだが、演出や脚本、美術や音楽等々、様々な要素を踏まえて評価する。誰がどう演じようと、その作品が面白いかどうかは、また別の話だ。
多様性を無視しているのは、果たしてどちらなのか。