自分のカルマと他人のカルマ

これまで書いてきただけでも私は、イライラした人に反応し、上司に反応し、熱海に反応し、太平洋戦争末期から敗戦後の日本の状況に反応し、少林寺拳法の開祖の言葉に反応し、数限りない身の回りの人間関係に反応し、強烈に囚われていることを見つけることができた。それぞれの囚われの対象には、パラレルな自分の内面の苦しみ: 仕事を頑張りすぎて絶え間なく続く恨み節や、自分の失敗や後悔や、時の流れによって失われていくものをなんとかしようとすることなど、が付随することを見つけた。

そうだ、寛容さだ。特に自分に対する寛容さ。私は、これを手に入れたいと思っている。これまでに自分が書いた文章から、寛容さを手に入れる鍵が自分の内面の苦しみだ、と言うところまで考えを進めることができた。

でもいきなり内面の苦しみをなくすのは難しそうだ。自分の中でまだ消えていない内面の苦しみをどう扱えば良いのだろうか?

そうだ、一つ成功例があった。私の知り合いでとても競争心が強くいつもマウントとってくる男がいる。その男は、詳しくは書かないが、本当に生まれた時からマウントをやっていたと言う話を本人から聞いた(もちろん、本人がマウントという言葉を使ったわけではないが)。私もいちいちマウントをとられると悔しくて嫌な思いをするので頑張ってマウントを取らせないぞ、って感じで競り合ったこともあった。だけどあるとき、なんの考察もなく、「あれはあの男のカルマなんだ」と思った。私は私のカルマに対応するだけで精一杯だから、その男が持って生まれたカルマにはその男が向き合うべきだと思った。それ以降小競り合いに巻き込まれることもなく、すごく楽になった。

もう一つ成功例があった。体の不快感を俯瞰ユニットにとどまってやり過ごすやり方だ。

もう一つあった。中心帰納の状態。惣身で日常生活をしたことがないが白石先生はされていると聞いたことがある。白石先生は中心帰納の状態になると、感覚が鈍感になり刺激に反応しづらくなるとおっしゃっていた。

これらの自分の内面の苦しみに対処するやり方は今回の話に何か役立たないだろうか?

三つもヒントがあれば上出来だ。早速、試してみよう。

まてよ。俯瞰ユニットメインで恨み節自動思考が止まるんだからこれを、もっと長い時間やればいいんじゃないか?俯瞰ユニットメインが日常的にって大丈夫かな。でも、やってみよう。あれ、要するにずっと自覚してればいいってことじゃないか?切れ目なく自覚できるものなのか?とにかくやってみよう。

追記
少林寺拳法における技の練習が人と人とを信頼関係で繋ぐツールであることはすでに書いた。相手をやり込める技術であるはずの武術がなぜ信頼関係を醸成するツールになるのか言葉で説明できないとも書いた。もしかしたらここにも苦しみが隠れているかもしれない。逆技を交互にかけたり、蹴りを手で受ける技が沢山あって、練習が終わると手足がホーホーするのをよく感じた。人間は、ともに痛い思いをすると苦しみで繋がる、そんな風にできているのかもしれない。そういえばマラソンの心理戦も走ることの肉体的な苦しみによって選手たちが無意識に繋がってしまうと考えると辻褄が合う。痛みを感じると繋がってしまうのは動物の生存戦略としてもよく合うような気もする。



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