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作家って職業があるわけじゃない 作家っていう生き方があるだけだ

 テキスト(書籍の編集)を担当していた時期もあるけど、主として(入社の当初から)漫画雑誌の編集部に在籍していました。

 国民的ともいえるヒット漫画を担当したりもしてましたよ。

 基本、陽の当たる部署で真っ黒焦げになって働いてきたのでありますが、編集長という役職に就き、十分な黒字も出し、まあやるべきことはだいたいやり尽くしたんじゃないか、という気持ちにもなれて、他にもいろいろ事情はあったのでありますが、ともあれ自主的に希望して職を解いていただきました。退社したのであります。もったいない、と両手の指はおろか足の指を足しても数えきれない数の人たちに言われましたが辞めてしまいました。

 都内の住居を人様に借りていただき、妻と二人でそこそこ都会な田舎に移住をいたしました。

 購入した不動産が稼いでくれるお金で、物理的にはいくらか慎ましく、精神的にはそれなりに豊かに暮らしています。

 アーリーリタイアってやつですね。

 これ、中学時代に決めていました。だなんて語ると笑われるのだけれど真面目な話であります。

 子供の頃あまり豊かじゃなくて、だから玩具やプラモデルなんかを買ってもらえなくて図書館の本が友達でした。活字の隙間にオレンジだったりブルーだったりする世界を見付け出し、ときめいたりわなないたりしていました。

 お陰で国語の成績はよく、読書感想文コンクールで毎年賞状なんていただいていました。

()に入るべき接続詞を選びなさい、だとか、太郎の気持ちは次の内どれですか、というような問題に、苦もなく、あっさり、これしかないだろって感じで回答していたわけですが、クラスの秀才たちもこれには何やら驚いていて、こんなに自明なことがなぜわからないのかと僕は、こんなふうに書くと嫌われちゃうかもしれないけど、本当に、単純に、そう感じていました。図書館を愛する少年だったんでまあ当然でありますね。

 小学生の頃はポプラ社の、あの濃い緑色の装丁の少年少女愛蔵版的な本で、『真実一路』や『野菊の墓』、『路傍の石』や『二十四の瞳』、『ビルマの竪琴』なんてあたりを読み漁っていました。自然科学を扱ったカラーグラフや、伝記物、あるいは江戸川乱歩みたいなエンタメ本も読みましたが、特に好んで読んでいたのは日本文学でありました。

 とうに死んでしまった作家たちが遺した、熱かったり重かったり、爽やかだったり軽かったりする言葉たち、それらがアンモナイトや三葉虫より素晴らしい化石のように思えました。

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 読みながら作家の息遣いを感じていました。そして思いました。僕も作家になりたい、と。

(人間ってのはちっぽけな存在だ。百年も経たない内に消えてしまう儚い存在だ。僕も消える。いつかは消える。そしたら零だ。こうして生きて、こうして考え、こうして思って、こうして感じているあれもこれも、僕の肉体の機能停止とともに「無し」になる。そんなのってとても嫌なことだ、残酷なことだ、虚しいことだ。だから僕は……)

 幼い彼(僕のこと)は真剣に考えていました。

(だから僕は、今こうして生きて、こうして考え、思い、感じていることを言葉にして遺したい。ずっと未来の、知らない人たちに僕の息吹きを感じてほしいんだ。だから僕は作家になりたい!)

 中学に上がって芥川や太宰を読み、ふうむ、と感嘆する一方で、貧しさに堪えたり、肺を病んだり、自殺したりするのは嫌だなあと暗い気持ちで、あるいは明るい気持ちで思いました。

 作家ってのはどうやら貧乏らしい。貧乏しながら考えることは明るいことじゃないだろう。どうせ遺すなら明るい言葉を遺したい。暗い箇所があったっていいけど、暗いだけの言葉はやはり好きになれそうもない。っていうか、僕のこの人生は、ほら、こんなにも明るいものじゃないか。だったらこの明るさを言葉にしたい。

 明るさってのは暗さに支えられて存るわけだけど、そんなことに気付くのはもっとずっと長じてからのことであって、中学生の僕は端的に暗さを嫌い、病気を避けたく思い、自殺に恐怖を感じていたのであります。

 だから思いました。(作家になるのは後回しにしよう。まずは編集者になろう。小さな出版社に入って、きちんと働いて、お金を貯めて、人脈も作って、これでなんとかなりそうだって段になってからサラリーマンを辞めて作家になればいい。そうだ、そうしよう!)

 小さな出版社、と考えたのには理由があります。大きな会社だと歯車にされちゃって自分の個性を発揮しづらいんじゃないかと思い込んでいたのでありました。随分と地に足の着いた、ロマンの欠片もない中学生でありました。

 その後の高校生活で人並みに異性を好きになり、本に見向きもしなくなったり、バイトに励んだり、大学生活ではデモに参加したり、宗教合宿に潜り込んだり、はたまた弁護士を目指して司法試験を受験したり、紆余曲折の限りを尽くしました――そのあたりのことは私小説めいた『連れてって』にて詳述していますが、

 ――ともかく、途中で気が付いたのであります。あ、そういえば僕は作家になりたいんだった、と。で、そのためにまずはサラリーマン編集者になるつもりだったんだ、と。

 マスコミ研究会に入ったり、情報誌の編集部でバイトをしたり、作文の練習に明け暮れたり……、自分なりの就職活動をして小さな出版社と大きな出版社に内定が取れました。

 給料のことなんて全然知らなかったけど、好きな漫画家さんが描いていたので大きな方の出版社に入り、そしたら漫画雑誌に配属されて、なんとその作家さんの担当に抜擢され、夜も昼も正月休みもない暮らしが始まり、あれよあれよという間にギョーカイ人の醜悪さを身に付けてゆくことになるのですが、しかし(作家になりたい、金の心配をしないで書きたいものを書きたい)という夢は捨てておらず、妻と結婚するときにもちゃんと言いました。「お金貯まったら会社辞めて作家になる所存なりよ」

 妻になる前の彼女は少し困惑したようでしたが、まあしかたないかな、と思ったのでありましょうか、しぶしぶかどうか知らないけど結婚してくれました。で、そのあと仕事とは関係ないことだけどいろんなこともあり、そういう諸々も後押しになって僕らはえいやっと新しい生活を始めるのでありました。ある意味では僕の計画が「ちゃんと」実現しちゃったのであります。

 作家って職業があるわけじゃない、作家っていう生き方があるだけだ。短くはない編集者生活で僕はそのことを学びました。

 だから僕は今、金を稼ぐために書いていません。息吹きを遺すために書いています。自分の納得できるものを。

 書を読み、ウクレレを爪弾き、八十ミリ口径の双眼鏡で月や星雲を眺め、滋味豊かな食材を少量の酒とともに味わい、日に照らされ、風に吹かれて、若い子らと語り合い、妻と喧嘩し、仲直りして笑い、その合間に言葉たちを書き付けています。

『方丈記』を記した頃の鴨長明の暮らしに似ているような気もしています。

 いろんなことがありました。――これからもあるでしょう。一つ一つを大事に味わい、できたらそれらを適切な言葉たちで表してゆきたい。

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 ウクレレが奏でる軽くて明るい響き、これが日々のリズムを作ってくれていて、それはまるで心臓の鼓動のように僕を今の僕足らしめてくれていて、ときには例えば滲む夕日や、ホバリングするトンボの翅の輝きなんかにちらりちらりと永遠みたいなものが見えたりもして、だから「感謝」ってことを、とても静かに、いつも思っています。

 今居る日々は幼き頃の図書館に似ています。静かで優しくて深みがあって、オレンジやブルーの光が見えるのでありました。

 生まれ出づる言葉たちを、丁寧に、丹念に紡いでゆけたらとしみじみ思うのであります。

 というようなあれこれを、わりと端的に、淡いタッチで描いている――つもりであるのが『連れてって』であります。宣伝を重ねてしまいますが、よろしかったら↓

 多分に自己満足的な記事を、最後まで読んでくださりありがとうございました。


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