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青春の終わり、大人のスケールアップの始まり

あれは今から25年前だったか。
当時、自分の年齢は17か18だったはずだ。
純然たる帰宅部の僕は高校から帰ると16時以降はやることがなかった。
記憶が確かであれば、毎週木曜日の17時になるとテレ東をつけた。
今までに無いロボットアニメという触れ込みだった。
正直ガンダムやらなんやらは興味がなかったが、
美味しんぼやらルパン三世やらシティハンターは見ていた気がする。
あっちは日テレだったと思うが「17時からやるアニメ」のチームだった。
いや、ガンダムもちょっとは観ていたか。Gガンダムは面白かったと思う。
東方不敗の拳法が。いろいろ調べたらB級香港映画が元ネタと聞いた。

話を戻そう。
17時からやる新しいロボット作品は、頭にクエスチョンマークが付きながら観ていた。「分からない」ということは当時は「興味深い」だった。
京極夏彦の姑獲鳥の夏が出て、馬鹿みたいに読んでいたのもこの時期のはずだ。要は多感な青春時代は「この世の全ては不思議であり、この世の不思議なものは何もない」精神状態だった。

唯一わかりやすかったのは二人コラボでシンクロナイズする話と
マグマの火口に降りていく話くらいで良く分からなかった。
世間では哲学的だと言われ、そうなのか。と思い、

デカルトやらを図書館で探しては大急ぎで読み、毎週木曜日を迎えたがやはり良く分からなかった。
最終回が近づくにつれ当時の自分には「分からないから面白い」ステージから「理解不能だが、なんかスゲェ」なものに展開していった。
一方で「こんなのエンタメでは無いよ。責任を果たしてない」などと言っていたのは、のんことのびたのラジオスクランブルだったか。
当時経済力もなくインターネットなども無い時代だったため、情報源はラジオくらいだったが、ああそうなのかと思った程度だった。

その後、映画版まで観たが、見れば見るほど気持ち悪くなり、
作品内でも「気持ち悪い」と言われ、嫌気がさしてきた。

インターネットも無い時代で、しょせん若者の人間関係では、新たな情報源も無く、結局は理解不能なまま、青春時代の遺物として取り残される扱いになったまま、大学、社会人となり、忙殺される20代を過ごす中で、すっかり存在は忘れていた。

(・・・というか他にもっと楽しいことが多くなり、レアなウィスキーを飲んだり、ダイビングに興じたりと経済力を使ったものに変わっていた)

その後、時が立ち、改めて映画化されるものと聞いた。
その頃になると既に良い大人だったが、
映画を観ることは好きだったので、とりあえず観に行った。
観ることは観たが、特に感慨も無かった。
三作目は面白いと人づてに聞き観に行ったが、
戦艦好きが空飛ばしただけだろうと表層的な感想しか持たなかったことを覚えている。

さて、今回の最終話?(仮)だ。
外出への抵抗もあり、ここ数年、サブスクやらなにやらで再び映画をよく観るようになっていた。ノーランのテネットを観に映画館へも行っていたくらいだ。

消化された。
一言でいうとそんな感じだ。
腑に落ちた。とでもいうか。

当時あれほど難解と思っていた内容が、経験の積み重ねと知識の拡充、インターネットというインフラの確立、サブスクリプションという過去作の確認手段からか脚本、セリフ、カットを確認、検証し鑑賞する中で、

ああなんだこれほどストレートに。言い換えればベタに。
言葉通り受け取るだけの単純な話なんだ。

と分かった。
よくあるSFの単純なプロットに私的な要素が組み込まれた作品なんだ。と
客観的に捉えられ、一体あの高校時代の時間は何だったんだ。
と思う次第だった。

とはいえ、一通り鑑賞し終わって
「ああ、これでもういいや、決着ついたな」
と思わせてくれるスタッフの丁寧な仕事ぶりはリスペクトの念が湧いてきたのも確かだった。観終わった後に、ジワジワともう一度検証しておきたい。
と思わせる素晴らしい作品だった。
決して上手ではなく、不器用で堅苦しくベタな話なんだが
それも含めて良いよね。という作品だと思った。

お疲れさまでした。
シン・エヴァンゲリオンで決着をつけてくれて、ありがとう。

エンディングの宇多田ヒカルの曲も3.0+1.0を表し途中から切り替わる演出。秀逸だったよ。



大人になった僕は、私的作品の周辺を埋めるべく、

コードウェイスミスの人類補完機構を改めて通読することにするよ。

*出典 早川書房、人類補完機構、ノーストリリア コードウェイナー・スミス著 浅倉久志訳より表紙を引用させていただいております。

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