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本物

 最初はなんだかわからない。色々なものを見たり触ったり使ったりして、挙げ句集めてみたりして、やがてこれだ! と思ったり、気がついたらたくさん持っている中から、結局その中の一つを使い続けている事に気がつく。
 その他たくさんは、箱に入ったまま眠っている。

   スナップオンの工具、六十年代の針が尖ったステンレスのロレックス、二十七年使い続けている真鍮のジッポー、ビクトリノックスのナイフ、アップルのマッキントッシュ、シュアファイアのタクティカルライト、ドイツ・フォアベルク社のコーボルト・ホームケアシステム・・・。

 昔、車いじってて、それこそエンジンやらミッションまで自分で積み降ろししたけど、その頃いろんな工具使ってて、高いけどスナップオンを買って使った時、その瞬間から他のレンチはゴミになった。
 ライターも、ダンヒルやらカルチェやらデュポンやらロンソンやら、その他ジッポもたくさん持ってるけど、結局、オイルと石だけ入れてやれば、いつだって機能するご機嫌なライターは、ジッポの中でも一部で、その中でもシンプルな真鍮のジッポが一番だった。

   一つ一つに、大げさに言っちゃえば歴史がある。自分の中の歴史。
どれも本物。自分にとって時間の試練に耐えて残った本物ばかり。
 けれど、どれもお勧めしない。 なぜって、俺にとっちゃ本物だけど、誰にとっても本物とは限らない。それに本物は誰かに教わるものじゃなくて、実際に自分が使ったり見たり触ったりして、これだって思うものじゃなきゃ、自分の本物にはならないもん。
 ある日突然出会って、これだと思ったら、もう探しまわる必要なんてなくなる。これはもうほんとに、ある種の啓示みたいにわかる瞬間が来る。
 けれども、何が本物なのか、さっぱりわからない物の方がはるかに多い。見ても触っても使ってもわからない。カメラの本物はわからないし、万年筆の本物もわからない。
 それは自分に見る目が無いからだ。見ても触ってもわからないものはわからない。わからないから、たとえそこに本物が有っても、目の前を通り過ぎ、手のひらからこぼれ落ちていく。

  所有出来なくても、出会える本物だってたくさんあるだろう。それが本物だってわかっていれば、時々見に行ったりするだけだって幸せになれる。古い神社や国宝級の日本刀や、春を彩る一面の菜の花や、風に舞うサクラの花びらや、秋の紅葉やお気に入りの料理、至高の酒。 

 本物をたくさん知っている俺は幸せだ。
 人間だってきっと誰かにとっての本物になれる。


※この文章、私が敬愛する自動車評論家の福野礼一郎氏の著書、「福野礼一郎の宇宙」の中に酷似したエッセイがあります。私の文章はまるっきりパクリみたいですが、熱烈なリスペクトであります。そういえば福野さんも自分の中の本物だなあ。


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