盲点(スコトーマ)
脊椎動物の目は、その発生の仕方から、網膜と視神経の繋がる部分は盲点になって見えない。
しかし我々は普段盲点の存在を意識する事は無い。
それは脳が見えない部分を補完して、見えているように感じるからだ。
しかし実は書きたいのは心理的な盲点についてだ。
心理学的盲点の事もスコトーマという。
人間は自分が意識しない事は見事に見えない。
例えば、結婚して妻が妊娠したとたん、夫は町中に妊婦がいる事に驚いたりする。
或る考えに取り付かれていたら、やはり他の考え方は思いつきもしない。
主義主張もその片側に偏れば、反対側の考え方や主張などは目もくれなくなる。
さらに生きる上での選択肢もそうだ。
子供の頃からいい会社に入るなり、公務員になるなりして、いい給料と安定した生活を送るのが大人になる事のように刷り込まれる。
実際の職業は会社や役所に勤める事だけじゃないし、自分で事業を興すなり、自分を売り込むなりあらゆる選択肢が有る。
ところが意識しなければ選択肢が有る事すら見えて来ない。
よく目から鱗が落ちるというが、それがスコトーマが外れるという事だ。
ではどういう時に外れるのか?
新しい経験から、知らない物事を知った時。
固定概念が覆された時。
今までの方法で物事がうまく行かず、別の方法を見つけた時。
想像もできなかった事が実際に起きるのを見た時。
などなど切りがないが、目から鱗は落ち続ける。
心理的スコトーマは、視野が狭いと考える事も出来る。
心理的視野狭窄だ。
枝葉末梢で見ると全体が見えないとが、例えば女性に対して、サラサラヘアーだとか、大きな胸だとか、ぱっちりおメメだとか、その部分だけを見ていたのではその人がどんな人なのか、その総体(ゲシュタルト)は見えない。
「女」を見る事でスコトーマが生じ、「人」として観る事が出来ない。
これはありとあらゆる事で起きるから、一つ一つを取り上げてもあまり意味が無い。
鍵は抽象的に物事を捉える事だ。
全体をあるがままに俯瞰して観る。
そうすると、些末な事に目を奪われずに全体が見えて来る。
「男は」「女は」を「人間は」に置き換えてみる。
「人間は」を「動物は」に置き換えてみる。
それから物事を観る角度を変えてみる。
自分と反対の立場で考えてみる。
みんながそうなって行けば、理解しあえるし喧嘩もしなくていい。
自分の可能性が未来に広がっている事もわかるだろう。
結局見たくないから観ないってこともあるけどね。
それでも観ろよ。
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