笑みがこぼれる飲食店経営を目指すSmile Free 5
私の飲食業 経験 第5弾
いつも笑みがこぼれる飲食店経営を目指す、
笑顔でお客様を包み込み温かな雰囲気があふれる店舗
その雰囲気に導かれてファンが増え続けていく
一日の営業が終わり、売上集計をすると思わず笑みがこぼれる飲食
目まぐるしく変化する飲食業界の中で、その様な飲食店経営を目指すためには
今「進化」が必要。その事を共に「考え」「共感」出来る方々に発信しています。
共に考え、共感して行く為に今回も私の事を知って頂くために経験談を続けて発信させて頂きます。
「日韓の架け橋」になると言う人生のミッションを掲げ韓国において日本のフランチャイズ成功ブランド「赤から」の展開を企てた私でしたが、経営者としての未熟さから失敗していまします。海外進出と言うハードルを越える準備が不十分でオープンできず1号店の契約をするもオープンもできず1000万近い借金を負う羽目になり奈落の底に落とされてしまいました。
日本での仕事も失い、収入のあてもなくなりました。まだ小学校に上がったばかりの子供と妻を日本に残し韓国で何か収入を得る事を考えなければいけなくなったのです。
途方に暮れていた私を救ってくれたのが、かつてコンサルティング会社の韓国支社長を務めていた時代のパートナーやクライアントさん達です。
今考えると 本当に感謝の念に堪えられません。
まず、最初に声を掛け支援してくれたのが、焼肉店のオーナーであるピョン社長です。
OGMコンサルティング支社長時代のクライアントさんです。
ピョン社長は私が日本に引きこもっていた時期も定期的に連絡をくれ、日本に来ると必ずお会いしていた方です。
かつて私がお手伝いしていた当時は海鮮の和食店を経営していて、メニュー開発や新規店舗出店の支援を行っていました。
その後海鮮の店は閉め、故郷の「安東産」の韓牛を一頭買いする形で「精肉店風焼肉店」(精肉店の様にショーウィンドウに並べられた牛の部位をお客様が選んで食べる形式の焼肉店)を3店舗ほど経営されていました。
途方に暮れている私を見かねて、本店の屋上にある従業員用の部屋が空いていたので月5万ウォン(日本円で5千円程度)で貸してくれたのです。忙しい時に少し店を手伝う代わりに「賄い」も与えてくれました。
これで、寝食は保証される形になり、そこで、お店のお手伝いしながら店の運営のアドバイスをしたり、日本の情報を伝えたりと再起する環境を整えてくれたのです。
その様な形で再起の形が出来た時に、次に声をかけてくれたのが、韓国の「ミステリショッパー」の第1人者のミン社長です。
ミン社長は飲食店経営の経験を持ち、いち早く「顧客志向」の企業経営の大切さを知り、ミステリーショッパーを韓国で初めて導入した先駆者です。1年に1回世界ミステリーショッパーフォーラムにも参加しています。
また、ミステリーショッパーのノウハウが不足している中、日本のミステリーショッパーマーケテイングの代表的な人物である本多正克氏を直接訪ね親交を結び著作を翻訳し出版するなどの「出版業」も兼ねて行っていました。
そのミン氏とはかつてミン氏のクライントを連れて日本の視察ツアーを企画し実施したことをきっかけで知り合い、私が日本で活動している間もFacebookでつながっていた関係でした。
ミン氏は私にフランチャイズ協会などのセミナーの講演の場を与えてくれたと同時に「本を出版」することを提案してくれたのです。
講演を通し、比較的規模の大きい企業からの顧問契約の話を貰うことが出来たり、日本への外食産業視察ツアーの企画と実施を依頼されたりと本当にありがたく、実質的に私の再起のきっかけを作ってくれました。
そして提案通りにそれまでの私の経験を生かして本を1冊書き上げました。
題名は「外食産業勝者の条件」
2016年、2017年当時の韓国は日本の2000年代初頭の状況と全く同じ現象が見られました。市場の成長が止まり、競合が激しくなり、供給が需要を超える成熟した市場になり始め、それまでの成功事例が通用しなくなる時代になりつつあったのです。また、世界で最も出生率の低い韓国、数年で急激に高齢化が始まる時期でした。その現象に危機感を持ち、講演でも日本の当時の現象や事例を揚げ、「今進化しなくては生き残る事は出来ない。」と力説して回っていました。
その様な厳しい日本の外食市場環境を勝ち抜ぬき、現在日本の外食産業の勝者として君臨している企業の事例を挙げて持論を説いた本です。
ほぼ400ページに及ぶ内容を1か月で書き上げました。
その後、翻訳、校正など出版までに1年近くかかりましたが私の大きな財産になった事は間違いありません。
次に声をかけてくれたのが、やはり、以前のクライアントだったパク社長です。パク社長はソウル江南地区のオフィス街で大繁盛の洋食店を経営されている方です。支社長時代はある雑誌社の社長から紹介されて知り合いました。
とても熱心な事業化で、知り合ってからは積極的に日本に視察来て、一生懸命勉強をされていました。その様な中で当時OGMコンサルティングのクライアントだった「ブロンコビリー」を見せた所、こんな店がしたいと言って2号店目の計画を立て物件探しを始めたのです。
しかし、とても行動が早い方なので我々が立地の検証をする前に、物件の契約をしてしまったのです。2階店舗で少し「ブロンコビリー」的なコンセプトとは外れた1号店と同じオフィス街の真ん中でした。
私としては不安の残る物件でした。資金のあまりないパク社長は日本で見た通りの厨房レイアウトを中古の厨房機器を集め自分自身でセッテイングをしてオープンしたのです。
しかし、私の不安は的中し、鳴かず飛ばずの状況でした。
当時は夜遅くまで、ワインを飲みながら閉店後パク社長と対策について遅くまで語り合いましたが、なかなか浮上できない状態が続いたのです。
コンセプトと立地商圏の整合性の大切さを大きく認識した事案でした。
そして、私が韓国を離れる事になりましたが、(第2回 参照)その後2年間ほど苦戦したそうですが、結局撤退し再会した時は、1号店に専念して大繁盛は続いていました。
ほぼ5年ぶりの再会でしたが、大変喜んでもらい、ぜひまた支援して欲しいと声をかけて貰ったのです。
お手伝いが始まり、また積極的に日本に視察に来て勉強する様になりし、その後、日本式のラーメン専門店、1号店のノウハウを生かした弁当宅配店などを展開する様になりました。
その様な再会の中で、次々と声が掛かり、元OGM支社で私を支えてくれた李ヨセプ氏がイタリアンレストランを始めその支援、韓国では知らない人はいないほどに有名になった大田市のベーカリー「聖心堂」の外食部門、大箱の屋台村風居酒屋のフランチャイズビジネスで大成功を収めた「コダ茶屋」、外食大手企業の「Amoje」、1年間で600店舗を展開し、海外まで進出した伝説のチーズハットグのフランチャイズ本部「明朗時代(ミョンランジダイ)ホットドッグ」などの企業から次々と声をかけて貰い顧問契約を結ぶ事が出来ました。その中で開業プロジェクト案件や日本視察ツアーなどの案件も生まれ、年間で2017年は800万、2018年は1千万円程の売上を上げる事が出来ました。
「赤から」の出店時の借金も減額して貰いほぼ完済する事が出来る様になったのです。
その様な再起の中で最後にこの様な活動を支援したくれたのが日本人の店舗デザイナー真行寺先生です。真行寺先生は20年以上韓国で活躍されている店舗設計士の先生です。デザインセンスもさることながら、飲食店設計に欠かせない厨房システムに強く、韓国ではその様な実力を持ったデザイナーは真行寺先生しかいません。それに加えクライアントに寄り添い提案時には素早くイメージスケッチをするのでクライントは出来上がりの店舗イメージがいち早くわかり大変助かるのです。ですから「引っ張りだこ」の先生です。
開業のプロジェクト案件を支援して頂いた上に、上述の部屋を工面してくれたピョン社長が、飲食経営からの引退を決意し本店を売却する事になった時は、自宅のマンションの一室をあてがってくれたりと、公私に渡り大変お世話になったのです。
こうして多くの支援を貰いながら奈落の底から這いあがる事が出来ました。
人の縁の大切さを大きく感じたと共に、新たにコンサルティング活動の中で多くの学びがあった時期でもありました。
そんな私ですが、再び試練を迎える事になります。
2018年顧問先の「明朗時代(ミョンランジダイ)ホットドッグ」から日本進出の計画が立ち上がり、私がその日本の代表となりオープンするのですが、すぐにコロナに巻き込まれ、また私の飲食経営者としての未熟さから苦戦し現在に至るのです。
「日韓の架け橋」事業はまだまだ続きます。
その話は次回、「私の飲食業 経験」最後の章としてお届けしたいと思います。
今回も長々とお付き合いいただきありがとうございました。
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