笑みがこぼれる飲食店経営を目指すSmile Free 2

私の飲食業 経験 第2弾 

「いつも笑って飲食経営を続けて行ける」飲食店経営を目指す、

笑顔でお客様を包み込み温かな雰囲気があふれる店舗

その雰囲気に導かれてファンが増え続けていく

一日の営業が終わり、売上集計をすると思わず笑みがこぼれる飲食店経営

目まぐるしく変化する飲食業界の中で、その様な飲食店経営を目指すためには

今「進化」が必要。その事を共に「考え」「共有」出来る方々に発信しています。

共に考え、共有して行くために今回も私の事を知って頂くために経験談を発信させて貰います。
前回は私の飲食業現場経験として、飲食業界に入ったきっかけ、修業時代、そして過酷な労働の中でも多くを学んだ若き頃の経験についてお話しました。

そして、あるきっかけを機に韓国への留学を決意した所で終わりましたが、今回はその留学経験を通して人生の目標が定まり、飲食業界に広くかかわるコンサルティング会社に入社しそこで積み上げた経験についてお話しします。

1988年 4月 ソウルは春を迎えていました。私は手続きを経て語学学校として韓国で最も権威のある「名門 延世大学 語学堂」へ入学。晴れて語学研修の道を歩み始める事が出来ました。
その前の年まで民主化運動のデモがしきりに繰りかえされ、民衆の手で「軍事独裁政権」を打倒し、直接選挙で大統領が選出され、やっと民主化が芽生え始めたと言う時期でした。
同時にソウルオリンピックが開催される年でもあり街は活気に溢れ、見るもの、聞くものすべてに刺激を受けました。
何よりも父親の国の大地を踏んでいると言う思いが、私に流れる韓国人としての半分の血が騒ぎ本当に「生きている」という感じでした。

私は日本である程度韓国語は勉強していたので1級から6級まであるカリキュラムの2級からのスタートでした。その語学学校には世界各国から人たちが集まり「米軍兵士」「カナダ人宣教師」「日本の外務省職員」「大手企業駐在員」「大学の研究員」他世界各国の在留韓国人や韓国文化を学ぼうとする人たちで、多人種と多岐にわたるスキルを持った人たちでクラス編成されていました。とても楽しい時間をその人たちと共にすることができました。
初級段階では仲良くなった「カナダ人宣教師」と地下鉄の中で片言の韓国語で話していると前に座っている人たちに「クスクス」と笑われる事もありました。とても滑稽だったと思いますが、いい思い出です。

その様な時間もあっという間に過ぎ5級まで進級した時です、ある程度の会話は出来る様になりましたが「まだまだ未熟」そして、もっと、もっと知らなければいけない事が沢山、まだまだ自分自身のアイデンティティについて知りえていない!
1年という区切りで学びに来たものの、不完全燃焼感がとても強かったのです。

語学学校出てから日本国籍の私がビザを取得して韓国に残るには、正式に就職をするか、更に留学を続けるか、韓国人と結婚するかしかありませんでした。
就職は日本で大学を中退しているので学歴社会の強い韓国では受け付けてくれませんでした。飲食店などで働くことも考えましたが当時は飲食店でビザ取得など全くできない時代です。韓国人と結婚するにも、ビザを取得するために結婚するなど「詐欺」しかありません

残るのは留学の継続しかない!

もう一回大学で勉強してみようと決心して延世大学の本校に進むことを決意したのです。

留学生は「ある程度の語学能力」と「日本で就学した中での内申書の提出」で合否が決まりますが、幸いにも合格する事ができました。専攻は「経済学」

学費は持ってきたお金が足りなくなるので親に一部援助を貰い、あとは奨学金とアルバイトで賄う事で許しを得ました。

韓国では名門一流大学です、学生は熾烈な受験戦争を勝ち抜いてきたエリートばかりです。
おまけに同級生とは10歳も年が離れています。オリエンテーションの時「何あの人?」と神秘の眼差しを注がれたことを覚えています。
留学生として簡単に入学できても卒業できるかは別問題です。必死に勉強してついて行かなくてはなりません。
そこからはモーレツに勉強しました。朝一で図書館に行きその日の授業を「予習し」講義終了後はすぐに図書館に戻り「復習し」夜は再び「予習」
言葉のギャップがある分「予習」をちゃんとしておかないと「意味」を理解するのに時間がかかりついていけなくなるので、次の講義範囲は予め教科書を読んで講義に臨むのです。

勉強漬け、図書館に住んでいるような生活でしたが、学ぶもの、学ぶもの、どんどん吸収していき、そして吸収して行くとある一定の時期に「はじける」様になります。
学んだことが ただの知識ではなく、生きていく上で必要な「栄養」になって行く感覚。
「得た知識をある事象に対してあてはめ仮説を立て、物事を見る力が湧きだす感覚」
学んだことの足し算が、掛け算になって行く時期でした。

その様な学生生活を送りながら、遂に自身のアイデンティティと人生の目標を見つける事が出来たのです。

俺は日韓の架け橋になる!
 
これが私のライフワーク、人生のミッションです。

韓国人の父と日本人の母の間に生まれ、思春期から抱いて自身のアイデンティティのもやもやが、韓国を知り、韓国語を不自由なく話せるようになり晴れ晴れとなり視界がぱっと広がったのです。

この経験を日韓の架け橋として生かそう

そう決意できたのです。

そして3学年終了時、自分を生かす大きな機会が訪れたのです。

父親から「ある飲食店専門のコンサル会社の社長がお前に会いたいと言っている。飲食店の勤務経験があり韓国に留学しているお前に関心があるみたいだ」と告げられました。ちょうど冬休みで一時帰国していた時でした。

ご存じか知りませんが、その会社はOGMコンサルティングと言う企業です。
創業者は 榊 芳生という当時のトップコンサルタントです。本も多く出しています。
今は創業者も他界し、会社も存在しませんが1990年代~2000年代に外食産業界に大きな影響力を与えた会社です。
そこでコンサルを受け上場した企業は、「ワタミ」「物語コーポレーション」「ペッパーフードサービス」
「ブロンコビリー」「がってん寿司 RDC」今では超有名な企業の他、多数の上場企業があり、非上場でも「赤からを運営する甲羅グループ」静岡のハンバーグで有名な「さわやか」など多くの優良企業を輩出し、全盛期はクライアント数600社を超える勢いでした。

1992年 OGMコンサルティングはこれからどんどん成長する韓国の外食業界に目をつけ韓国支社を立ち上げた所で、私の様な経験を持つ人材が欲しかったのです。
正月明け会いに生き、「卒業したらうちに来てくれ、もしよかったら残りの1年 アルバイトで韓国の業務を手伝ってくれないか?」と言われ快諾しました。

4年生の1年間は 日本から担当者が来ると同行し、通訳や業務のフォローなどインターン研修のような形で、業務を勉強させてもらい、晴れて1993年卒業、正式採用となりました。

私の経験を生かし 日韓の架け橋となる大きなチャンスの到来でした。

OGMコンサルティングのコンサルの部門は大きく3つに分かれていました。

総合コンサルティング部:担当コンサルにクライントが振り分けられ、月に1回、2カ月に1回訪問しその企業や店舗の課題を共に取り組み解決し、従業員の教育などを担当する部署

開業プロジェクト:新規にオープンする為のプロジェクトを担当する部署。開業計画書の作成、メニュー開発、調理指導、オープン教育などを担当する部門です。

セミナー部門:経営者幹部教育セミナー 店長セミナー、一般社員向けセミナーなどを企画し実施する部署です。

私は、韓国を任せられるようになるまで、まず日本のクライアント対象に総合コンサルの仕事について力をつけろと言われ、総合コンサル部に配属されました。
傍ら韓国業務にも従事しろという事で、月1回から2月に1回上司と韓国に行き通訳をしながらコンサル業務をこなしたり、韓国からの視察研修団が来た時にアテンドしたりと他の社員の業務量の1.5倍をこなさなくてはいけない生活でした。

業務は多岐にわたり、クライアントを訪問し店舗のスーパーバイジング、試食チェック、従業員教育、計数管理、アンケート分析や広告作成や販売促進などマーケティング支援、時に経営者が現場で忙しいクライアントには決算書の分析などもするなど飲食経営に必要な事すべて求められていた状況です。
多い時には30社を超えるクライアントをあてがわれ、北は北海道から、東北、関東、中部東海、近畿、そして中国・四国と日本全国を飛び回り、目の回る日々でした。
土曜日に出張から戻り、そのまま着替えと荷物を入れ替え韓国に飛ぶこともありました。

居酒屋勤務時代とはまた違う過酷な日々でしたが、今の私の飲食業の考え方・ノウハウの基礎が作られたのはこの時期です。何よりも多くの事例を実際の経営者の方々や実践現場で学んだことが大きな成果でした。

特に、重要な学びとして得たものは「飲食経営の考え方・心得」です。

師匠の榊 芳生は

経営は「夢」と「情け」である。と常に語っていました。

夢とはビジョンを語る事

情けとは会社は働く従業員・社員の幸せの為に経営する事である。
情けをもって経営をして従業員・社員が一生懸命働き繁盛店を作れば地域貢献にもなる。

繁盛店は 多くの地域住民のありがたい存在である
     多くの雇用を生むことが出来る
     業者さんから多く納品をして貰い潤わせることが出来る
     利益を一杯出して税金を払えば自治体への貢献にもなる。

誰の為に、何のために飲食経営をするのか、それをまず明確にすることだ

という教えです。

この事については改めて寄稿しますが、多くの経営者が自分の金儲けの為にアドバイスを受けに来ると師匠はまずこの話をして、相手を覚醒させるのです。そして経営者のマインドが変わると驚くように成長して行くのです。

そんな実例を数多く見て来ました。上記上場した企業の経営者の人たちも同様です。

その様な教えを胸に秘め、指針にして業務に励んでいましたが少しずつ韓国の業務をひとりで任されるようになり、晴れて2005年 韓国の支社長を任命され韓国で活躍する日々が訪れました。
まだまだとても景気がよく成長期であった韓国外食産業界です、ひっぱりだこになり携帯電話が鳴りっぱなしの日々で、韓国でも東西南北走り回る毎日でした。
日本で経験したノウハウを十分に伝えることが出来、喜ばれ、感謝される充実した日々で、自身のライフワーク「日韓の架け橋」を実践している充実感に満ちていました。

しかし、そのころから日本の本社の雲息が怪しくなって来たのです。
2002年ごろから、少しずつ業績が低下している事は感じていました。上記の様な上場した企業が大きくなりあまりそれまでのコンサルを必要としなくなった事、少しずつ外食業界の市場規模が縮小して行き開業案件が不足して行った事、競合が激しい時代に突入し、時代に対応できるコンサル手法を作り出し「進化」を試みなくてはならない中、過去の成功事例にとらわれ過ぎて変化出来なかった事。そして、2代目がインターネットビジネスに失敗したり、不必要な投資をしたりと銀行からの借り入が増え債務超過に陥ったのです。
実業で12億程度の売上に対し、負債は15億だったそうです。
コンサル会社としては致命的な出来事でした。

上に掲げた経営者の心得を真逆に行く結果となったのです。

そして2008年 ついに民事再生を申請する事になってしまったのです。
私48歳の年で、遅く結婚し、やっと授かった子供が生まれる時でした。

そしてその年の10月 私は退社を決意し15年間勤務し、多くの事を学んだOGMコンサルティングを離れる事になります。退社と言うより「卒業」という感触でした。

通常の勤め人であれば目の前が真っ暗になる出来事ですが、独立してやっていけると言う自信があったのです。

そこで韓国の支社の社名を変えて退職金代わりに受け継ぎ再スタート独立しますが、日本の有名なコンサル会社の看板は大きく、また私だけを見てコンサルを受けていたわけではなく、私の師匠であり、当時日本の飲食業界のトップコンサルタントであった創業社長についていたクライアントも多く、離れていく人たちも出てきました。またコンサル会社の倒産はイメージも悪く1年ほどで撤退を余儀なくされるのです。生まれたばかりの子供の事もあり一旦日本の戻る事を決心する事になったのです。

そして日本に戻ると韓国の財閥企業の子会社に幹部としスカウトされ新たな「日韓の架け橋」をスタートする事になるのですが、それは次回にお話しします。

今回も、長くなりましたが、次回に続きます。

ありがとうございました。

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