#13「見えない妥協の問題点②」8/13
金沢市で活動をしています『あらい淳志』です。
前回から、日本の国会の働きについて、考えています。
与党内の政策立案についてはすでに書いたので、
今日は、与野党の関係性がテーマです。
野党の役割
昨日は、自民党の話ばかりしてきました。
与党内での政策への「変換」作業は、説明をしてきた通りです。
族議員と呼ばれる人たちが「裏で駆け引きをしながら」政策を決めていました。
次は、与党と野党との関係です。
当時は、自民党が1党優位だったわけですが、社会党をはじめとする野党も、政権を取るほどの勢力はなくても、立派な「民意」であったことは確かです。
では、少数野党は、どうやって国会で影響力を発揮したのか。
国会では、自民党が法案を出してくるわけで、それを少数派の野党が廃案にしたり、修正をしたりするのは、容易ではありません。ほとんど不可能です。
それでは、「野党の最大の武器はなにか?」
答えは、「時間切れ」と「世論」かなと思います。
日本の国会は、「会期制」を取っています。
難しく考える必要はありません。
要するに、法案審議にはタイムリミットがあるわけです。
野党はなによりも、時間切れを狙います。
自民党は、タイムリミットに間に合わせるために、野党の反対を押し切って、無理矢理、法案を通すことには、それなりの拒否感があります。
あまりにも自民党の国会運営が強引だという話になれば、与党に対する世論の風当たりが強くなり、人気を落とし、選挙で議席を減らすのではないかという考慮が働くからです。
だからこそ、野党ともそこそこに「手打ち」をしたい、と思うわけです。
野党だって、ひたすら反対をして、国民から見放され、政策的にも自分たちの意見がまったく取り入れられないのは、不本意です。
どこかで「落としどころ」を見つけて、自分たちの「成果」を得られれば、それはただ単に反対をし続けた場合よりも、良い結果を得られます。
ここに、与野党が「合意」をするインセンティブが生まれます。それなりのところで、落としどころを作りましょう、となるわけです。
【国対政治】
そうした取引は、与野党間の非公式の協議で行われます。
国会の公式な審議ではありません。
それこそが、「国会対策委員会」による『国対政治』と呼ばれるものです。
与野党は、法案の実質的な中身や、国会審議の進め方について、ここで調整をします。
お互いが「ここは譲れない」というところまで詰めて、最後に妥協をするかどうかを決めるのが、国対の場です。
「政治は、日程だ。」「政治は、プロレスだ。」
こうした表現は、この「国対政治」のことを指すことが多いです。
与党は「自分たちの意見を押し通した」と言い張る。
野党は「与党の法案を止めた、修正した」と成果を主張する。
お互いが納得できるゴールを裏で決めて、表の国会審議ではシナリオに沿ってプロレスを繰り広げるのです。
国民が国会だと思って見ているのは、特別深い意味のある審議ではありません。表で何かを決めているわけではないのです。
表で繰り広げられているのは、与野党がそれぞれの支持者に見せたい「自分たちの活躍と成果」です。
そういう意味で、私は日本の国会は「アリーナ型」の一面もあると言いました。
争点を示すと言うよりは、「支持率」という名の世論を喚起する「批判の応酬」です。これは、今の日本の政治にも、当てはまるのかもしれません。
この全てを「茶番」と言ったら、叱られますね。
表では話が拗れて決められないから、裏で決着をつけるわけです。
それぞれの利害を反映し、最後になんとか決めきる技術でもあります。
誰も、自分が妥協する姿を、国民に見せたいとは思いません。
自分たちの意見を立派に押し通したという体面を作りたいのです。
「政治の技術」の一つだと、私も思います。
国民に見えない、改革ができない
ですが、ここでも、課題が生じます。
与野党間の調整を、結局、国民には見えないところで進め、決めてしまう。
一部の利害関係者になら、その妥協の中身は分かるのかもしれません。でも、大多数の国民からは、なにが起こったのかは分かりません。
そこに、国民が納得できない、不透明な決定や妥協が行われる余地が生まれます。
多くの国民と政治の距離が離れてしまった一つの要因です。
同時に、与野党間の妥協が優先される結果、中途半端な政策しか打てないという課題も抱えました。
個別の利益よりも、大胆な改革が国民にとって必要な場面は、十分にあり得ます。
にもかかわらず、与野党合意を優先するあまり、そうした大局的な判断ができなくなってしまう。
「国民の選択を通じて、よりダイレクトに改革を進めなければいけない」という機運が昭和の終わりにかけて、盛り上がりを見せるようになりました。
それが『平成の政治改革』につながります。
【まとめ】
日本の政策決定の仕組みを長々とまとめてきました。
これはあくまでも、大きな流れの記述です。
場合によっては、世論を巻き込んだ表の舞台で政策決定が行われることもありますし、与野党協議が決裂して、合意ができないようなケースもあり得ます。
個別具体的に、各政策がどうやって決まったかは、その流れを一つ一つ見ていかないと評価のしようがありません。
他にも、二院制や内閣の機能、選挙制度との兼ね合いなど、考慮に入れなければいけない要素は、本来はもっとたくさんあることも忘れてはいけません。
ですが、昭和の日本の国会が、一般的にいって、「国民に見えないところで」「妥協を重ねてきた」という見方は、一つの通説的な理解のような気がします。
少なくとも、私はざっくりと、こんな感じで国会を理解しています。
だからこそ、「平成の政治改革」では「国民に見えるように」「リーダーシップを発揮する」ことが目指されてきました。
単純化すれば、「裏でコソコソ妥協をする」のではなく、「表でどかんと進めて、国民の審判を仰ぎましょう」ということです。
それが、平成の日本政治の一つの目標になりました。
争点型の「アリーナ型国会」を目指す、ということです。
さて、次回は、『平成の政治改革』を取り上げます。
果たして、日本の国会は変わったのでしょうか?