◤9年◢それでも人生は続いていく——
ぼくの3.11
記憶は遠くなっても、薄らぐことはない。
2011年3月11日。
故郷・栃木の高校で味わったのは、震度5強の激しい揺れだった。
大学受験を終え、佐世保へと向かう準備を進める矢先の出来事だった。
🕊
交通機関も電波も何もかもが麻痺する中、校庭へと避難をする。
大好きな先生方が円となって、青空職員会議を開いている。
僕は手元にあったP905iのアンテナをシュピンと伸ばし、ワンセグ機能を使って、ニュースを見守った。
数時間前までリスニングの授業で使われていたラジカセからは
「東京タワーのアンテナが曲がった」
「千葉の石油タンクで大規模火災」
錯綜したまま都内近郊の情報が流れ出ている。
「受験前に電池入れ替えておいたのが役に立ったね」
震源地が東北だと知ったのは、発災から数時間経ったときのことだった。
初めて避難訓練ではない避難経験をしたその頃、仙台空港で軽飛行機や自動車が押し寄せる波に乗って流されていたこと、数々の生活がさらわれていったことを、まだ僕たちは知らなかった。
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会議室で迎えを待つ間、近所のパン屋さんが差し入れてくださったカツサンドの味が今でも忘れられない。
家路に着く道すがら、電気が消えた街の空にいただく満点の星のさざめきに感動したことは、まるで昨日の出来事のように鮮度を保っている。
一気に崩れ去った日常。
〝おはようなぎ〟や〝金子みすゞ〟で埋め尽くされたテレビコマーシャル。
言葉を失った「海岸部に遺体300人」「砂浜に200体の遺体が打ち上げ——」のニュース速報は、現実を信じるだけの心の余裕さえ奪った。
「タービン建屋」や「メルトダウン」といった聞き慣れない専門用語から、悪質なデマまで氾濫していく情報たち。
今までの「当たり前」が、遠くなっていく毎日だった。
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続いていく「3.11後」の長い人生
瓦礫は撤去され、草木が繁茂する住宅街の跡地を目の当たりにしたとき、押し寄せてくる虚無感に抗うことができずにいた。
震災の翌年、大学サークルの研修会で福島県の被災地を訪れたときのことだ。
震災が起きるその日まで、ここには何気ない生活が営まれていたのだと、草花に隠れた玄関の跡を見たときに生活や命の匂いを感じた。
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人生の途上にあって、不条理な運命のために亡くなられていった無辜の命。
犠牲になられた1万5千人以上の命は、どれほど明日を生きたがっていたのだろう——。
そう考えるたび、自分の人生は「3.11前」よりも「3.11後」の方がうんと長いことに気づく。
命が消えっていった、まさにその場所に立ちながら思いを巡らせたのは、生きていくことへの肯定だった。
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人生のしおりとしての3.11
被災地でも佐世保でも。
多くの人々が「あの日の自分」を思い返す3.11は、〝絆〟や〝風化させない〟といった通り一遍の言葉では消化しきれない、日本中の人々の人生の栞なのかもしれない。
🧻
震災から9年。
新型コロナウイルスの感染拡大で9年前に似た自粛ムードや悪質なデマが蔓延する中、市内でもいまだマスクやトイレットペーパーの品切れが相次いでいる。
教科書で「歴史」として習ったはずのオイルショックと現在が地続きにあることを実感する。
混乱が続く社会を見て思い出したのは、震災からちょうど一年、都内の花屋にできた行列だ。
長蛇の列を作ったのは、近くの国立劇場で開催される記念式典の一般献花用に花を求める人々。
僕も一時間ほど並んだ末、細やかな花を抱えて、明日の日常を願った。
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3月11日。
震災後の僕にとっては、「しっかり生きていこう」「一日一日を充分に切り盛りしていこう」と、自分の人生や生き方を丁寧に考える日だ。
運命に負けないで——。
それでも人生は、続いていくのだから。
いつか、「自分の言葉」が、花束にも、拍手にも、声援にもなって、誰かの元へと優しく届くことを願って。