父は人間だった

子供は成長の過程で、正しさや善さを学ぶ。

最初にそれを教えるのは親だ。親は師であり、裁判官である。私の場合つい最近まで、父を神だと思っていたふしがある。ふし、というのは、あえて思い返してみればそう感じるのであって、当時は自分の考え方を分析したりはしなかったから。たとえ普通を喪失しても、父が認めてくれればいい。私の世界を創造した完全な存在だからだ。全てを知っていて、絶対に迷わない。言葉にするとどうも閉鎖的で不健康な響きだが、このくらい壮大だった。でも、私は成長の過程のどこかで、父も人間じゃないか、と気づいたのである。知らないことがたくさんあり、失敗し、もがく人間じゃないか。決定的な何かがあったわけではない。やおら父の正体を知り、落胆し、いつの間にか事実を受け入れていた。父に対してがっかりなんてしたくなかった、と言うのが本音だ。ところがこの失望はどうやら、この先を生きるのに必要な行程だったらしい、と教えてくれた映画がある。

アメリカ北西部の森の中に、六人の子供とその父親ベンが暮らしている。子供達は学校に通っていないが、全員アスリート並みの体力と、年相応以上の知識を身につけていた。テレビや携帯電話、電気もガスもない。代わりに狩りの技術と数え切れないほどの本を与える。それがベンの教育だった。

ある時、一家に悲報が届く。精神的な病に侵されていた母レスリーが、入院先の病院で自殺したのだ。葬儀はレスリーの故郷、ニューメキシコで行われる。ベンと子供達は、キャンピングバスに乗り込んだ。母に最後のお別れを言うための、2400km の旅だ。初めて触れる外の世界で、子供達は徐々に自分達と世間のズレに気づく。家族以外の人とどう話せばいいかわからない。普通がわからない。父親の教育方針に、いや、父親そのものに、彼らは疑問を抱き始める。有楽町の閑散とした劇場で赤いシートに埋もれながら、私はホッとした。身に覚えのある疑問だ。失望だ。父は神ではなく、世界の審判でもない。奇天烈なロードムービーが、事件を普遍的なこととして描いている。

ほころび始めた信念と、過渡期を迎えつつある親子関係に困惑したのは、子供達だけでなくベン自身もだった。映画の原題は『Captain Fantastic』。舵を切り続けてきた偉大なキャプテンが、座標を見失ってもがいている。その姿は、子に自ら考えるきっかけを与えた。親の必死な人生を見せる、それこそが最高の教育なのかもしれない。

 僕を一人立ちさせた広大な父よ

 僕から目を離さないで守る事をせよ

 常に父の気魄を僕に充たせよ

 この遠い道程のため

 この遠い道程のため      (高村光太郎「道程」大正三年)

父、光雲を自然と重ねた光太郎も、きっと同じような経験をしただろう。僕は父の生き様を見たから、その自然にも勝る広大さを知ったのだ。私には、そう聞こえる。人間になった父は、以前にも増して多くの出会いと発見を与えてくれる。そうして私は森を出て、舵を握った。世界と自分の均衡を図り、まだ見ぬ疑問と答えを探す。孤独な旅は始まったばかり。



島川 柊